地理と地域白桃さんの地理雑学講座
南奥羽の小さくとも光る街々 1
〜置賜(高畠、小松、宮内・赤湯)〜
   
制作:千本桜 歌麿 
設置日:2020.6.23
更新日:2020.10.25
E-mail:tiritotiiki@gmail.com
「南奥羽の小さくとも光る街々 1」は、白桃市町村人口研究所 白桃酔夢氏からの寄稿です。
執筆:白桃 酔夢
編集:千本桜 歌麿

目 次

はじめに
 千本桜さんにご案内頂いた南奥羽(南東北じゃ、南だか東だか北だかワケがわからなくなる・・・)の街々の印象をちょこちょこっと書けばよい、と随分安易に考えていた私、アサハカミツケでした。「地理雑学講座」と『講座』がつくとなると、「昭和歌謡史学科・ご当地ソング地理学教室」で非常に優秀な成績をおさめた白桃と言えどもチト荷が重いのです。そこで、少しでも「講座」らしくごまかそうと、もったいぶった資料・データを準備することにしましょう。
 まず、「昭和の大合併」期以前の街について、街としての歴史、その客観的評価を知るには、注①「『町』となった年」が重要なキイになることはもちろんですが、注②「戸口表」が有力な参考資料になります。
 これから書こうとする全ての街々は「昭和の大合併」期に合併を行っており、合併して新しくなった「市」や「町」についても触れてみましょう。その際には角度を変えて、注③「1960年〜2015年の人口増加率」、注④「昼夜間人口比率」、注⑤「年間商品販売額」を参考に、市や町の成長力と求心力を探ってみます。
 そして、私が一番重視しているのは、注⑥「人口集中地区」(DID)の有無(あるいは過去に有ったか無かったか)で、これによって真の“街らしさ”を認識し、“街の華やぎ”を連想するのです。
 と、御託を並べましたが、どうあがいても「講座」らしくはなりません。でも、見切り発車いたします。まずは、どこから行きましょう。山形県の置賜地区からまいりましょうか。

注①「『町』となった年」
 「町制施行日」とすれば良いのですが、1889年(明治22年)に施行された市制・町村制においては、♪男と女の間には深くて暗い川がある〜ように、「市」と「町」の間には大きな壁というか隔たりがあったのですが、「町」と「村」との間には、呼称が異なるだけで本質的違いはない、というのが建前だったのです。この建前論からすれば、「村」から「町」となったときは、「町制施行」ではなく、「名称変更」ということになりますが、ここでは簡単に「町制年」としときましょう。この建前ですが、本気で真に受けている方がいたら、その方に、なぜ、町村制施行と同時に、「大河原村」ではなく「大河原町」となったのか、説明をしてもらいたいものです。

注②「戸口表」
 市制・町村制が施行される少し前(1886年:明治19年)に行われた人口調査の報告書で正式には「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」といいます。
 市制・町村制施行時には、現在「大字」や「字」と呼ばれているいくつかの集落が合併して新しい「町」や「村」が誕生したケースが殆どですが、「戸口表」で報告されているのは、新しい「町」や「村」ではなく、それ以前の個々の集落の人口です。
 「戸口表」に記載された集落(町村制施行前の町や村)は三つの表に区分され、
第一表は、「市街及び市街の体裁をなしている名邑」
第二表は、「市街の体裁をなしていない名邑」
第三表は、「第一、第二表に記載されていない二百戸以上の集落」
となっており、言うまでもなく「街の格」としては、第一表に記載されているところが上位にきます。現在の街の原型を知る上で貴重な資料です。

注③「1960年〜2015年の人口増加率」
 この項で対象とする地域は、1960年国勢調査時には南陽市を除き「昭和の大合併」が終わっており、これ以後は軽微な境界変更を除けば「平成の大合併」まで廃置分合は行われておりません。「平成の大合併」を行った市町及び南陽市においても、旧町(1960年国勢調査時)の境域での2015年国勢調査人口が判明しており、旧町単位での55年間の人口増加率を知ることができます。

注④昼夜間人口比率
 国勢調査の常住人口(夜間人口)100人に対する昼間人口の比率です。昼間人口とは、【夜間人口+他市町村からの通勤・.通学者−他市町村への通勤・通学者】で、昼夜間人口比率が高いところは、(周囲から人を集める)求心力があることを意味します。

注⑤「年間商品販売額」
 平成28年(2016年)の「経済センサスー活動調査」において集計された年間商品販売額(「小売業」のみ)を2015年国勢調査人口で除して、一人当たりの年間商品販売額を算出しました。販売額と調査人口の年が異なる点、旧町単位では算出できない等の問題はありますが、求心力の有無に関して参考にはなると考えます。

注⑥「人口集中地区」(DID)
 昭和35年(1960年)国勢調査に初めて登場してから、各回の国勢調査ごとに設定されています。総務省統計局HPには「人口密度が1平方キロメートル当たり4千人以上の基本単位区等が市区町村の境域内で互いに隣接して、それらの隣接した地域の人口が国勢調査時に5千人以上を有する地域をいう。」と、やや難しく書かれておりますが、「昭和の大合併」によって、従来の市町村単位の統計では把握ができなくなった「都市的地域」の実態を明らかにする必要から生まれた統計上の地区です。DIDについては、24時間、いや、1週間ぶっつづけで話をしても足りないかもしれませんが、ひとまずこのあたりで。

置賜
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 置賜は「おきたま」とも「おいたま」とも読まれるのですが、その中心は「生まれながらの市」米沢です。米沢も千本桜さんにご案内いただいたのですが、米沢はまぎれもない「都会」ですから、私好みの小都市を取り上げようとするここでは涙を呑んでスキップしましょう。
 米沢が横綱土俵入りをするなら、高畠と小松は「太刀持ち」と「露払い」、米沢が黄門様なら、高畠と小松は助さん・格さん、というのが私のイメージでしたが、ある方からの情報によりますと、二つの街は米沢に対して敬意を払うでもなく、慕っている様子もないようです。そんで、「大米沢市?おいたま市?」が成立しなかったのかも。

まほろばの里・高畠
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 高畠のある屋代郷は、明治維新を上杉領として迎えたのですが、織田氏の陣屋が置かれたり、幕府直轄地になったりと、そういう歴史も米沢との間のしこり?に関係するのかもしれません。この高畠、町村制施行は、「高畑村」でスタート。町になったときも「高畑町」、それから高畠町と名を変え、「昭和の大合併時」には一時「社郷町」となりましたが、今は♪昔の名前で出ていま〜す。
 東置賜の郡役所が置かれた高畠ですが、四つの街の中では「戸口表」の現住人口が最下位、町制年も赤湯と並んで3位タイと、街として明治期の評価は意外なものでした。
 「昭和の大合併」で周囲の村と合併し人口3万人を超えたのですが、「町」のまま。小松(現:川西町)も合併後、3万人超えを達成したのですが、それは1955年国勢調査一回きり。高畠の場合は1955年と1960年の二度も超えながら市と成れなかったのです。市に成りたくなかったのか、市制施行要件を満たしていなかったのか、わかりませんが、1955年、1960年とも高畠の人口より少なかった尾花沢が市になっているのを、高畠の住人はどう思ったのでしょうか?(※以後の国勢調査でも尾花沢市は高畠町の人口を下回っています。)新生・高畠町の人口増加率をみますと、川西町や宮内(南陽市宮内地区)よりひどくはないものの、順調?に減少しています。
 「求心力」については、指標となる「一人当たり年間商品販売額」、「昼夜間人口比率」ともに川西町を下回っております。
 高畠のDIDは2015年国勢調査で消滅してしまいました。広い道幅で区画整理されたところ、小綺麗な街路灯など好印象を受けましたが、スーパータウンのような活気は感じられませんでした。

昭和の匂いが漂う・小松
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 小松は明治期に高畠より街としての評価は高かったようで、町制年も1890年と、町村制施行の翌年です。「戸口表」の現住人口も3千人を超えており、白桃選「明治の名邑」に入っています。因みに、山形県の「明治の名邑」は、米沢、山形、酒田、鶴岡、新庄、谷地(河北町)、寒河江、楯岡(村山市)、上山、大山(鶴岡市)、天童、宮内、山辺、長崎(中山町)と小松の計15です。
 高畠の項でも書きましたが、「昭和の大合併」で川西町となり、人口も3万人を超えたのですが、以後は減少を続け現在は半分になってしまいました。2020年国勢調査で1万5千人を割り込むのは確実となっています。
 「一人当たり年間商品販売額」も低く、「求心力」のある街ではありません。「昼夜間人口比率」について言えば、2000年より上昇した2015年は高畠町より上位にきましたが、これは「求心力」が高まったことを意味するのではありません。他市町村からの流入人口(通勤・通学者)が増えなくとも、高齢化の進行によって就業者の数が減り、他市町村への流出人口も少なくなった場合に生じる現象です。
 DIDが一度も存在しなかった川西町の中心街小松。宿場町の名残りか、なんか細長い街並みで、こちょこちょ混み合っている印象でした。そうそう、「三菱鉛筆」の看板を目にしたような・・・、大村崑の「オロナミンC」や松山容子の「ボンカレー」の看板が至る処に絶対残っていそうな雰囲気。昭和の時代で時間が止まってしまって、小松っちゃいそうな街。井上ひさしの出身地とか。景気づけに♪「ひょっこりひょうたん島」でも流してみたらどうでしょう。

二眼レフの南陽市・宮内&赤湯
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 南陽市の両眼、宮内と赤湯。二つの街はまことに対照的でした。千本桜さんは、赤湯を「はしゃぎ回っている」、宮内を「疲れたので横になって寝てしまった」と評していますが、言い得て妙、まったくその通りで、白桃の地理雑学講座はこの言葉でもって休講にいたしましょう・・・というワケにもいかない?
 宮内は【客観的評価】の町制年欄に※印をつけているように、スーパータウン大河原と同じく、1889年町村制施行と同時の町制、つまり「生まれながらの町」(「村を知らない町」)です。「戸口表」の現住人口も置賜では米沢に次いで多いのです。その名のとおり、熊野大社の門前町(お寺ではないので「鳥居前町」と称することも)として栄えたようで、街の形態として吉野川の谷口にあることから渓口集落(谷口集落)と言っても良いのでは。谷口集落→生糸生産という連想になりますが、やはり、生糸生産が盛んに行われていたようです。一方の赤湯は、湯治場としては古くから知られていたものの、街としての歴史は宮内より浅く、町制年も町村制施行から6年後の1895年。と言っても、我がふるさと三本松より3年も早い。くやしい!(香川県だけ町村制施行が1890年となり→これ事実、また、町となる「審査」が非常に厳しかった→これは?)
 この二つの町と和郷村が合併して市となったのが1967年4月1日。忘れもしない、この日は白桃が三本松高校の生徒となった日であります。コレ全く関係ないですね。
 言いたいのは、この1967年に市となったのは全国で僅かに10例。そのうち7市が東京大都市圏内で、地方圏では、加西、宇佐と南陽のみ。「南陽」という全く関係ない中国の故事からとってきた市名からも推察されますが、市名決定に際しては、宮内と赤湯の間でかなり揉めたようです。
 合併当時は宮内が人口面で赤湯を圧倒していたのですが、現在は赤湯の方が多くなっています。赤湯が増えたのではなく、宮内の減少が激しすぎるのです。
 「昼夜間人口比率」も「一人当たり年間商品販売額」も、隣の上山よりはマシという程度で、南陽市の「求心力」はパッとしたものではありません。
 2015年国勢調査で宮内のDIDが消滅しました。片一方の眼の視力が弱くなった感じです。熊野大社は立派なものでしたが、訪れたとき街全体がセピア色に映りました。市の主導権は、カラフルな色彩でちょっぴり派手な感じの赤湯に移ってしまいました。その赤湯も観光地だけに、新型コロナの影響も懸念され、街の将来については安閑とはしておられないですね。

統計データ
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白桃酔夢様

 原稿をお寄せいただきましてありがとうございました。置賜盆地を舞台に繰り広げる高畠、小松、宮内、赤湯の興亡。どこか人生に似たものを感じます。地理が好きな人の中には、こうした「小さくとも光る街々」に愛執をいだく人も多いようです。引き続き「競合か連携か?大河原町と柴田町」、「恋して大河原」などのご寄稿を楽しみにしています。 

千本桜歌麿
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