地理と地域白桃さんの地理雑学講座
♪「港町ブルース」考
制作:千本桜 歌麿
設置日:2020.7.15
E-mail:tiritotiiki@gmail.com
地図
♪「港町ブルース」に登場する港町たち

♪「港町ブルース」考は、白桃市町村人口研究所 白桃酔夢氏からの寄稿です。

執筆:白桃 酔夢
編集:千本桜 歌麿

おことわり
 「南奥羽の小さくとも光る街々」置賜編に続き、「福島県北」編を予定しておりましたが、気仙沼の6月1日現在推計人口(注1)が6万人を割り込んだことで、急遽こちらを先に投稿することに致しました。気仙沼の人口と変更は特に関係はありませんが、何となく優先順位はこちらの方だと思った次第です。
 (注1)推計人口:国勢調査人口を基に、住民基本台帳法および外国人登録法に基づく届出を加減することにより算出した人口であり、外国人を含んでいます。


目 次



イントロ


 「琵琶湖周航の歌」にある、♪明日は今津か長浜か〜、は地理的に誰でも納得すると思いますが、「涙を抱いた渡り鳥」の♪今日は淡路かあしたは佐渡か〜は、旅まわりの芸人?の歌とはいえ、いくらなんでもハードスケジュールすぎる。どういう行程を組んどるんじゃ!と憤慨したくなるのです。それはともかく、水前寺清子が歌った頃には、淡路市も佐渡市も無かった。当然、歌詞のアワジとサドは我が国を代表する島の名前であり、旧国名であります。ですから、♪今日は対馬かあしたは壱岐か〜でも良い、むしろ行程的には自然であります。でも、これではヒットしていなかったかも。とにかく、昭和歌謡には今の歌よりも地名が多く出てきます。(のような気がします。)ただし、その多くは語感、イメージ優先で地理的合理性?に欠けるものであったと言えるのではないでしょうか。
 今回とり上げるのは、森進一の「港町ブルース」。この歌は、その前年にヒットした「盛り場ブルース」が、東京、名古屋、大阪と札幌・仙台・広島・福岡(この四都市を「都市地理学」では「広域中心都市」と呼ぶ、と言っている「学者」もいます。)の大都市の盛り場を歌いヒットしたことで味を占め、では次は「港町」でいこう、ということで作られたらしい。歌謡曲において従来から題材として多く用いられる「港町」ですが、この歌には14もの「港町」が登場します。ただ、ヨコハマとコーベの両横綱の休場は仕方ないとしても、「『港町』と言ってもそこは『漁港』ではないか?」、あるいは、「確かに港はあるものの、そこを港町と呼ぶのかい?」とツッコミを入れたくなるところもあり、この歌も決して地理的に妥当なものではありません。もちろん、本稿の目的はこの大ヒット曲の歌詞にケチをつけることではありません。歌詞の地理的妥当性にも注目しますが、それと同時に、いや、それ以上の目的は、この歌に登場する「港町」の人口推移をみながら、それぞれの地における「港」の存在意義の変化を考えてみることです。ただし、考えてみるだけで、いや、想像、妄想するだけで、なんら結論めいたことは書かないかもしれません。そんな能力はありませんので、きっと、書かないでしょう。では、いつものように、脱線しながら、船だから難破?しながらまいります。

一番. 港 函館 通り雨
函館港:港湾法における「重要港湾」   函館漁港:「第3種漁港」
表組 写真
 A表上段は、「港町ブルース」が発売された翌年・1970年の函館市の国勢調査人口と2015年国勢調査人口(1970年時の境域に組替えた人口)を示し、下段は、「函館DID」の人口推移を表しています。「函館DID」とは函館市にあるDID(人口集中地区)の合計人口ではなく、函館市中心部のDID名(注2)で、1970年においては亀田町(当時)の「亀田DID」と、2015年においては北斗市の「七重浜DID」と連担しており、DID人口はその合計となっています。
 (注2)DID名は白桃が勝手につけたものです。
 B表は(自治体としての)函館市の2015年国勢調査から本年6月までの人口推移を表しています。
 なお、後に出てくる表については、基本的には函館と同じなので説明を省略することがあります。
 函館は、大正から昭和の初めにかけて道内随一の人口を誇っており、「港町」としても、「開港五港」の一つであり、また、青函連絡船の発着港、北洋漁業の基地として 重要な役割を担っていたのですが、昭和の終わりごろから衰退傾向にあります。
  急激な人口増をみせた亀田市を1973年に編入し、自治体人口を30万台にのせたものの、30万を割り込むと、「平成の合併」を以てしても復帰はならず、特に近年は、深刻ともいえる減少を示しています。(2015年国勢調査時点では、旧・函館市域の人口は137,295人、旧・亀田市域の人口は116,862人と、そんなに変わらなくなっています。)
 人口減少の要因は、基幹産業となっている造船業と北洋漁業の低迷、それに代わる魅力ある職場がないことから若年層が札幌、東京に流出していく、ま、そんなとこでしょうか。
 まったく関係ありませんが、毎年7月に函館競馬場で行われるレースに「巴賞」があります。これは、函館港を取り巻く地形、陸繋島の函館山とそれをつなぐ陸繋砂州(トンボロ)の形状が巴状になっていることで「巴港」とも呼ばれる函館港に由来しています。「巴」は函館市の市章と市旗にも取り入れられており、このことからも、函館港は函館市にとってなくてはならないものだということが窺えます。

二番. 宮古 釜石 気仙沼
宮古港:「重要港湾」
釜石港:「重要港湾」   釜石漁港:「第3種漁港」
気仙沼漁港:「特定第3種漁港」
表組 写真
 三陸の3つの「港町」、ま、「港町」と呼んでも許されるでしょうが、釜石は「港町」と言うよりも「鉄」の街+ラグビーというイメージが今でも強く残っています。釜石の人口のピークは1960年ですから、「港町ブルース」が発売された1969年は下り坂にありました。その1969年に製鉄所においては平炉による製鋼を休止、1980年大型工場休止、1989年高炉を停止するなど縮小に縮小を重ね、現在は銑鋼一貫製鉄所ではなくなっています。(本年4月には、組織再編により、「東日本製鉄所釜石地区」となり、「釜石製鉄所」の名前も無くなっています。)A表のとおり、釜石の人口減少は惨憺たるもので、DID人口も3分の1となっています。「企業城下町」の宿命、と言えばそれまでですが・・・。

 盛岡の「外港」として開かれた宮古ですが、私には「津波に何度も苦しめられた街」という印象が強いのです。釜石ほどでもありませんが人口減少も激しく、「平成の大合併」で周辺の町村と合併したこともあって、近年(2015年以降)の減少率は釜石を上回っています。

  「サメの町」として有名な気仙沼の気仙沼漁港は、「特定第3種漁港」に指定されています。「特定第3種漁港」とは、利用範囲が全国的なもので重要な「第3種漁港」の中にあって、最も重要とされる13の漁港のことです。全国で13しかないのですが、宮城県には気仙沼の他に塩釜漁港と石巻漁港が指定されているのが面白い。最初に述べたように本年6月に6万人を割り込んだ気仙沼、それでも自治体人口では宮古を上回っています。ただし、「平成の大合併」以前の境域人口は宮古とトントンです。DID人口に至っては3市の中で最少となっています。余談ですが、そのDID、2015年国勢調査では大川を境に分断され、二つのDIDになっております。(白桃は、可哀想だから、連担しているものと認定しています。)気仙沼の人口減少は、宮古、釜石に負けず劣らず深刻ですが、特にDID人口の減少が気になります。

 釜石の「鉄冷え」は別にして、三陸の3つの「港町」は水産業の低迷に加え、2011年の東日本大震災によって非常に大きな被害を蒙りましたが、人口減少の原因はそれだけではなく、岩手、宮城の中でも「辺境の地」、言い方は良くないですが、「軽視された地」になったまま、「観光振興による地域活性化」だけでお茶を濁されていることにもある気がしてならないのです。

三番. 三崎 焼津に 御前崎
三崎漁港:「特定第3種漁港」
焼津漁港:「特定第3種漁港」
御前崎港:「重要港湾」
表組 写真
 「港町ブルース」に出てくる14の港の中で、三崎だけは自治体名と一致しません。 「海鮮三崎港」という回転寿司チェーンもありますし、「港町」ですから、「三浦」より「三崎」のほうが良いので、このことについて文句は言いません。ただ、人口を調べるのが面倒でした。三崎港がある三浦市は1955年に三崎町と南下浦町と初声村の合併によって誕生しました。A表に書かれた人口は旧)三崎町の人口です。三崎の人口は首都圏に存する街とは思えない減少を示していますが、旧)南下浦町の人口は1970年の9,297人から2015年には15,895人に増えているのです。1970年には無かったDIDも、2015年にはDID人口が9,297人となっています。南下浦の人口増の理由は京浜急行の三浦海岸駅(この駅は「山本コータローとウィークエンド」の♪「岬めぐり」が、ウィークデイでも流れるようですが、酔っぱらった白桃が乗るはずもない京急に乗って朝、目が覚めた当時は流れていなかった?)があるからです。つまり、品川まで早い電車であれば約1時間10分で行ける三浦海岸駅の周辺には住宅団地が出来たのです。また、「三浦海岸DID」は首都大東京圏DIDの一部となっています。
 一方の三崎ですが、電車が伸びていないせいもあるのでしょうが、これほどまでの人口減少は腑に落ちません。三崎港は「特定第3種漁港」に指定されているとおり全国有数の漁港ですが、水揚げ高は近年へってきているようです。それだけではなく、三浦市における「三崎港の持っている力?」が相対的に落ちているのではないでしょうか。首都圏で手軽に行ける観光地として売り出していますが、駅の無い三崎には、本来ならここに流れるべき♪「岬めぐり」は流れず、対岸の城ヶ島に冷たい雨が降るばかりです。

 三崎が長くなり過ぎた分、焼津はサ〜と流しましょう。焼津港は言わずもがな、三崎以上に全国にその名が知られた漁港です。なんでも、銚子、釧路と並んで「日本三大漁港」らしい。ついでに言えば、2015年国勢調査によると、「平成の大合併」前の市町村境域単位で、住んでいる漁業従事者が一番多いのが根室(2,420人)、次が石巻(1,349人)、3位は同着で北海道のえりも町と青森の平内町(1,330)となっています。因みに、釧路は600人余り、銚子も焼津も300人台ですから、水揚げ量、漁獲高と漁業従事者数はあんまり関係なさそうです。このあたりに、(経済)地理学面から水産業を捉えることの難しさがあるのかもしれません。こんな難しそうなことを言った後は、息抜きです。私の「三大漁港」は、境港、引田(香川県東かがわ市)、山川(指宿市)ですが、皆さんはどうでしょう。
 焼津の人口推移については、焼津港云々より静岡市の衛星都市的側面から考え るべきだと思うのですが、焼津港の持っている「力」はそれなり、いや、依然として相当なものがあると思います。その焼津も近年は、B表のとおり人口が減少しています。ま、静岡市がはっきりと下り坂を転げ落ちていますので、やむを得ないのではないでしょうか。
 ところで、隣りの藤枝と連担している焼津のDID。この連担したDID名を「志太DID」と名付けておりますが、どうもしっくりこないです。そう言えば、焼津には小泉八雲の記念館があったのですね。千本桜さんに教えてもらうまで知りませんでした。

 イントロで「ケチを付けるのが目的ではない。」と神妙な物言いをしましたが、これだけは許せないのが御前崎。「おまえざき」と言えば、台風の時によく耳にするし、御前埼灯台も有名ではありますが、それほどの港ですか。なるほど「重要港湾」に指定されていて、木材、自動車の他に浜岡原発の核燃料や核廃棄物も取扱っているということですが、この「重要港湾」って全国に102もあるのです。(注3)百歩譲って御前崎港を文字通り「重要な港」と認めても、「重要港湾」に指定されたのが1975年でありますから、「港町ブルース」が発売された当時は、殆ど名が知られていない港であったはずです。そして何より気にいらないのが御前崎を「港町」としたことです。御前崎町は1955年に御前崎村と白羽村の合併で出来た歴史の浅い町で、A表の1970年の人口は御前崎町の、2015年の人口は現在の御前崎市(浜岡町と合併して2004年に発足)の旧)御前崎町の人口です。もちろん、御前崎にはDIDはありません。こんな、御前崎を「港町」と呼ぶのであれば、♪私が生まれて育った所はどこにもあるような海辺の小さな港のある町よ〜、と歌った野路由紀子のは、「小さな港のある、でも御前崎よりは大きな港町よ〜」ってことになるのでは。字数あわせのために御前崎が入ったのは解っておりますが、私なら、三番の最後は、①銚子 三崎に 那珂湊、と関東で揃えるか、②小木に 両津に 出雲崎、と新潟県でまとめてみたいです。でも①は暗いです。②は更に、とってもとっても暗い気持ちになりますか・・・
 (注3)御前崎のことを貶してばかりでは申し訳ないので、少しフォローします。2010年に国土交通省は102の「重要港湾」のうちから函館、御前崎、高松、高知、長崎、鹿児島など43港を「重点港湾」として選定しております。が、「港湾法」上は「重要港湾」であることに変わりはありません。ついでに言いますと、「重要港湾」の上には「国際拠点港湾」18港があり、さらにその上に「国際戦略港湾」5港があります。

四番. 高知 高松 八幡浜
高知港:「重要港湾」
高松港:「重要港湾」   高松漁港:「第2種漁港」
八幡浜港:「地方港湾」   八幡浜漁港:「第3種漁港」
表組 写真 地図
 高知が「港町」と言うのもなんだかな〜という気分です。今から50年前のこと、若き白桃は高知で陸上競技部の合宿をしてました。合宿所は鏡川を渡ったところで後ろは確か筆山という名の丘陵でした。そこは町はずれ(1926年に高知市に編入された潮江村)、でも市街と呼ぶに十分な場所。毎日、そこから長距離のロード練習です。おととい後免方面、きのうは伊野方面、今日は桂浜まで。入部当初は短距離走者(のつもり)だったのに、いつのまにか長距離要員(それも補欠)になっていました。だから練習にも身が入りません。スタート時は数人一緒でしたが遅れだすと手抜き?足抜き?もう、練習というより街並み鑑賞です。だらだら走ってしばらく土電桟橋線の終点付近で船が見えてきます。そこも高知港と言うのですが、高知港の前の名前は土佐日記を書いた紀貫之が船出した「浦戸港」なのです。そこは、桂浜に向かってさらに走り、走るのをやめて歩き出したあたり、♪よさこい節に出てくる「御畳瀬(見ませ)みせましょ浦戸(裏戸)を開けて月の名所は桂浜」 あたりです。坊さんがかんざし買ったという「日本三大がっかり」?のはりまや橋からは遠い遠い。また、高知新港は浦戸湾の対岸、三里地区にあります。
 高知市は1942年に長浜町、浦戸村、御畳瀬村、三里村などを編入します。ですから高知港は高知の街にあるとも言えるのですが、そうでないとも言えるのです。浦戸湾のように奥の深い話です。
 2015年国勢調査時点で、高知のDID(人口集中地区)は四ヶ所にあり、私は、「高知」「土佐大津」「土佐長浜」「浦戸三里」と名付けました。 「高知」と「土佐大津」は連担しているとみなし、二つのDIDの合計人口はA表2015年欄に記入した243,676人。「土佐長浜」は旧)長浜町と旧)御畳瀬村にわたるDIDで、その人口は18,932人。面白いのが「浦戸三里」で、浦戸大橋を介して浦戸と三里が繋がった9,090人のDIDです。このように高知の市街は分散しており、どこを「港町」と呼べば良いのかという問題があります。「ま、そんな難しいことを言わないで高知城があるあたりにしとけば。」 とお願いされたら、「そこは城下町です。」と答えましょう。もう定期フェリーも無くなった高知港、その高知を「港町」と呼ぶのは無理な気がします。

 船に乗った回数が最も多い港は間違いなく高松港です。高徳線を降りて連絡船乗り場に向かう時、皆が一斉に走り出します。そんなに走らなくても座れるのに。宇野に着いたら又走り出します。急行「瀬戸」の指定席があるのに。何故でしょう?ともかく、連絡船、フェリーで宇野に行ったのも、関西汽船で大阪や別府に行ったのも、小豆島に行ったのもすべて高松港からです。が、佐々木新一が♪「船の着く町高松に〜」あの娘をたずねて行くまでは、高松が「港町」だ という意識はまったくありませんでした。
 「港町」と言えば、霧が流れて霧笛が聞こえ、マドロスさんがパイプをくわえ・・・、高松は、決してそんなところではありません。クーラーの利いた部屋でウトウトしていると良く晴れて風も波もない瀬戸内海をわたる船がボワ〜と、ますます眠くなるような汽笛をあげます。なぜか幸せな気分になるのです。屋島山頂から檀ノ浦にむかってカワラケを投げるのも良いのですが、反対側の高松港を眺めてみるのも結構嬉しいです。
 そんな高松を思い浮かべていると、「港町」かどうか検証するのはどうでも良い気分になってきますが、「四国の玄関」と自負してきた高松も、瀬戸大橋が出来てからはやや精彩を欠いています。高松港はそれ以上に影が薄くなっています。

 高知と高松は、「港町」かどうかは別にして、両県庁所在地における「港」の存在はそれほど大きいものとは考えられず、「港」と関連付けて人口推移を見ることはしませんでしたが、八幡浜はそうもいきません。「伊予の大阪」と謳われ、「西四国の玄関」として繁栄してきたのは、八幡浜港を抱えていたからでしょう。市制施行も古く1935年と、これは四国四県では8番目で、同県の新居浜より古いのです。
 しかし、愛媛県西南部は高度経済成長の波に乗り切れず、「港町ブルース」の頃には八幡浜の人口も下り坂。もっとも、白桃は50年前のその頃八幡浜に宿泊しているのですが、当時はまだ街に活気があったように思います。その後も人口は減り続けA表に記入したとおり、2015年には旧)八幡浜市境域人口もDID人口も1970年の半分近くまで減少してしまいました。「平成の大合併」で保内町と一緒になった八幡浜市ですが、2020年国勢調査では東温市に抜かれ、県内最少人口の市に成ることが確実視されています。また、旧)八幡浜市の現在の人口ですが、近年の減少率は旧)保内町よりもひどいことから、スーパータウン大河原と同じぐらいになっているのではないかと思います。
 人口減少が深刻な八幡浜ですが、実は八幡浜港も2000年に「重要港湾」から「地方港湾」に「格下げ」になっているのです。「格下げ」直後、「特定地域振興重要港湾」に指定と訳の分からないオマケがつきましたが、これはお役所の八幡浜市への忖度からでしょうか?
 八幡浜の人口減少は、何かの機会に一挙にドーンと減少したというのではなく、ボディブローが徐々に効いてきたボクサーのように、「アレ、いつのまにこんなに減ったの?」と言う感じです。近くの宇和島も同じような状態ですが、これって結構危険な状況ですね。豊予海峡の向こう側、大分県の「関サバ」「城下カレイ」は有名ですが、八幡浜港で水揚げされた魚も美味しいのです。酒呑みの私としても八幡浜には何とか踏ん張ってもらいたいのですが・・・。
 そう言えば、森進一は「港町ブルース」で「やわたはま」を「やはたはま」と歌っていますが、これは結構、有名な話らしい。

 私は四国の人間ですが、四国の「港町」を3つ選べと言われたら少し迷います。候補としては、八幡浜、多度津、坂出、土佐清水も挙がりますが、今治、土庄、小松島で手を打ちましょう。

五番. 別府 長崎 枕崎
別府港:「重要港湾」   亀川漁港:「第2種漁港」
長崎港:「重要港湾」   長崎漁港:「特定第3種漁港」
枕崎漁港:「特定第3種漁港」
表組 写真 地図
 「泉都」と呼ばれる別府を語るには、「日本を代表する観光都市である。」では言葉が足りない気がします。ほぼ「観光一本」によって成り立っている都市って他にどこがあるでしょう?熱海なんかは別府に似ていますが、別府の人口の3分の1にも届かない熱海を「都市」と呼んでいいのかどうか迷うところです。ともかく別府は「日本最大の観光都市」と言って差し支えないでしょう。
別府が「観光都市」として飛躍するきっかけとなったのが明治初頭の別府築港(注4)なのです。港が出来たことにより、大阪との間の航路が開かれ、大阪をはじめ瀬戸内各地から湯治客が押し寄せて来るようになりました。
 このように、別府港は「観光立市・別府」にとって非常に重要なものですが、あまり素直ではない白桃は、別府を「港町」と呼ぶことにいささかの抵抗があるのです。別府、と言われて殆どの人が真っ先に思い浮かべるのは「地獄」から噴きあがる煙で、真っ先に「港」を連想する人はあんまり居ないのでは、ということなんです。つまり、別府の主役は「温泉」であって、「港」はあくまでも「名脇役」にすぎない。ま、あんまりこの点に拘り続けるのも良くないので、「別府は日本最大の温泉・観光都市であり、また、港町でもあるって言っても決して間違いではない。」と言うことにしときましょう。
 「観光都市」別府は、全20回の国勢調査のうち2度ばかり大分市を押さえ、人口で大分県のトップになっています。A表では分かりませんが、人口のピークは1980年で以後漸減していますが、観光に特化した自治体や街では頑張っている方かもしれません。ただ、B表のとおり最近5年間の減少率の高さが気になります。なお、A表では別府のDID人口が急増していますが、これは1970年には連担していなかった「亀川DID」が「別府DID」にくっついたことによるものです。
 そう言えば、別府へ行った2回はいずれも高松から関西汽船なんですが、今は運航してないのですね。というか、「関西汽船」自体が無くなっているのですね。
 (注4) 別府築港は当時日田県知事であった松方正義(後の内閣総理大臣)の発案で、松方は別府繁栄の礎を築いた人とされています。

 いろいろ文句を付けている私も、長崎が「港町」であることに反対はしません。それどころか、横浜、神戸と並んで、昭和歌謡における「三大港町」(注5)であると断言します。京都から博多まで陸路で行っても、帰りは長崎から船に乗って神戸に帰らなければなりません。雨が降っていようがいまいが長崎の夜は紫色になるのです。鎖国時代、外国との貿易、交流は本当に長崎でだけであったのかどうかは気になりませんが、バスガイドさんが歌う♪「長崎の鐘」を聴くと必ず涙腺が緩くなるのはどうしてなのか、大いに気になります。オランダ坂が無くとも、思案橋が架かっていなくとも長崎は長崎ですが、「港」の無い長崎は長崎では無いのです。
 「長崎港の歴史は長崎の歴史」と言って良いほど港とともに繁栄の歴史を刻んできた長崎、1920年(大正9年)の第1回国勢調査では「六大都市」(注6)に次いで全国7位の人口(無論、九州では一番)を記録しています。そんな「大都会」の長崎でしたが、現在では、「地方の平凡な一県庁所在地にしか過ぎない。」と言われても反論できない状態にまで落ちてきています。長崎市の人口のピークは1975年(注7)。この頃はすでに高度経済成長の時代も終焉し、やがて、オイルショックによって長崎市の基幹産業である造船業は不況に陥ったのです。人口減少は近年ますます深刻となり、B表にありますように、2015年国勢調査時から本年六月一日現在までの減少数21,884人は、北九州市に次いで全国でワースト2位なのです。
 長崎市本体のDID(「長崎DID」)人口も減少しています。2015年の374,001人は連担している長与町の「道尾DID」を併せた数字です。DID人口も減少する深刻な事態の長崎ですが、市内には他に5つのDIDが点在しており、その中の一つが1973年に編入された旧)三重村にあります。1989年に長崎港内の漁港機能を当地に移したので、「新長崎漁港DID」と名付けています。
 (注5) あと一つ追加するとなると、小樽か函館になりますが、「日本三大夜景」とされる函館、神戸、長崎と似たような選択になります。
 (注6)「六大都市」と言うのはもはや死語ですか?第1回国勢調査の人口順位は、東京、大阪、神戸、京都、名古屋、横浜となっています。
 (注7)造船所のある(あった)市で1975年国勢調査時が人口ピークだったのは、清水、相生、玉野、尾道、坂出です

 枕崎は旅行会社に在籍していたときに添乗員として訪れているのですが、悲しいかな殆ど覚えていません。どこかを見学したという訳でもなく、昼食に枕崎駅近くの店でお客さんと一緒にカツオか何かを食べたのを微かに思い出すだけです。
 そんな枕崎、漁港として全国的に有名ですが、鉄道ファンや台風にも好かれる?街ですね。私の関心は、鹿児島県の主だった街の殆どが、明治期に「村」のままであったのはどうしてか?と言う事なんですが、この枕崎も1889年(明治22年)の町村制施行より前に出された調査報告書「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」に、鹿籠(かご)という名で現住人員7,096人(得体のしれないところを除いて鹿児島に次ぐ人口)となっていながら、町村制施行時は東南方(ひがしみなかた)という名の「村」にとどまり、やっと「町」になったのは1923年(大正12年)という遅さ。
 枕崎は、港が「特定第3種漁港」に指定され、水産業・水産加工業関連の企業もあり、また、市内には県立の水産高校(注8)が置かれる等、水産業が街を支えていることには間違いないのですが、どうも「港町」というイメージが湧いてこないのです。街を支えているのは他にも「さつま白波」で有名な薩摩酒造がある、そういう理由ではなく、枕崎もまた国分、加治木、出水などと同様にその「出自」が「麓」にあると考えるからです。
 「麓」(「麓集落」とも)とは、薩摩藩の領域内に分布する在郷武士団の集落で、軍事・行政の機能を有していました。言うなれば、城下町のミニ版です。枕崎は「鹿籠麓」ということです。「港町」ということであれば、イメージするのは枕崎より、むしろ、今はすっかりさびれてしまっているようですが、古代から中世にかけては繁栄したと伝えられる坊津(現:南さつま市)ですかね。
 だんだん「港町」の話から遠ざかりそう。「町」になるのは遅かった枕崎も「市」になったのは1949年で、これは鹿児島、川内、鹿屋、名瀬に次いで県内5番目。ただ、「市」となって安心したわけでもないでしょうが、その後は人口が全く伸びず、3万人前後を行ったりきたり、やがて行ったきり、2020年国勢調査では2万人の攻防になります。
 (注8)枕崎の他に、宮古には宮古水産高校、焼津には焼津水産高校があり、気仙沼と長崎には、「水産」の字は消えたものの水産系の高校があり、三崎にはかつて三崎水産高校がありました。なお、函館水産高校は函館ではなく、隣の北斗市にあります。

六番. ここは鹿児島 旅路の果てか
鹿児島港:「重要港湾」   谷山漁港:「第2種漁港」
表組 写真
 やっと鹿児島にたどりつきました。フ〜・・・
 「港町ブルース」が函館でスタートしたのは良いのですが、鹿児島がトリを務めることに少し文句をつけたい気持ちもあるのですが、「東洋のナポリ」だし、函館、長崎と並んで国立大学の水産学部もあるし、何よりも森進一が育った街だし、ま、よろしいでしょう。
 そう言えば、鹿児島港って降りたか、乗ったかしたことあります。もちろん、桜島からか、桜島までですが。
 鹿児島は「港湾都市」といっても長崎ほどの「港町」ではないので、港町と関連付けて人口推移をみることはいたしません(他でも殆ど出来ていませんが)。でも一言だけ。鹿児島の人口が結構増えているように見えますが、実はこの増加分の3分の2は1967年に合併した旧)谷山市の増加分なのです。具体的に言いますと、谷山地区は、1970に52,154人だったのが2015年には何と、3倍の159,086に膨れ上がっているのです。谷山と言えば、「御三家」の一人、西郷輝彦の出身地なのですが、驚いたことに谷山小学校の同学年(二年生まで)に吉田拓郎がいたとか。あゝ、港町とはなんら関係ない話でした。

みぃ〜なぁ〜とぉ〜、 港〜町 ブルースよ〜
 私の「港町」のイメージは、海上交通の要地に出来た街で、「商業都市」あるいは ときとしては「工業都市」を兼ねた「港湾都市」というものですが、「港町ブルース」の作詞(補作)者、なかにし礼はどちらかと言えば漁港を中心にした「水産都市ブルース」を意図したようです。
 「港湾都市」と「水産都市」は明確に区別できるわけではありませんが、どちらかと言えば、前者は大きな都市が、後者は中小都市が多そうです。もっとも、函館や長崎は「港湾都市」でもあり「水産都市」でもあると言えるでしょう。「港湾都市」あるいは「水産都市」いずれにしても、「港町」である以上は、人が集住する「街」でなければなりません。人が集住するからこそ、そこに「別れ」があり、未練にけむり、涙にぬれる街となるのです。人が集住するということは、DID(人口集中地区)が成立するということです。と言っても、多くの「水産都市」や「地方港湾」程度の「港湾都市」は、そんなに大きいDIDができるわけでもなく、一旦出来たDIDが消滅するケースが多く見られます。瀬戸内沿いには「アラ、こんな町にDIDがあったんだ」と驚くDIDの消滅した街が多く見られます。日生、下津井、鞆、音戸、忠海、江田島、安下庄、土庄、伊予長浜・・・。私はこのような街をわざわざ「かつての港町」と言わなくとも「港町」と呼んでも良いと思っています。元気な「港町」より哀れを誘い「港町」らしいではありませんか。
 それはともかく、「港湾都市」「水産都市」どちらも「人口」では現在、苦戦を強いられています。
表組
 まず、「特定重要第3漁港」を抱える「水産都市」ではトップクラスの13の市

※ 増加率・・・2015年国勢調査から2020年6月1日現在まで

福岡市以外は減少しています。東かがわ市が-8.37%ですから、銚子や枕崎の減少率の高さがきになります。
表組
 次は「港湾都市」関係です。

※ 減少数・・・2020年6月1日現在推計人口−2015年国勢調査人口

◯ 重要港湾・・・いずれも重要港湾の中でも国土交通大臣に指定された「重点港湾」

 左の表は、直近約5年間の減少数ワースト10の都市です。いずれも「重要港湾」より上位に位置する港湾を抱える都市が並んでいます。関門海峡を挟んで、北九州と下関、津軽海峡を挟んで青森と函館、長崎から船に乗って着いた神戸、開港五港の一つ新潟、元は軍港であった横須賀と呉、そして次郎長親分の清水(静岡市)。 これら「港湾都市」の近年の人口減少の原因は、勿論他にもあるのでしょうが、もうこれまで依存してきた「港」の神通力が通用しなくなったからではないでしょうか?  現在の日本で相変わらず「港」の力が発揮できているのは、「東京湾」「伊勢湾」「大阪湾」「博多湾」に臨むごく一部の大都市だけでしょうね。しかしそれも、新型コロナのことを考えると、これから先のことは予測もできません。


白桃酔夢 様
 原稿をお寄せいただきましてありがとうございました。港町ブルースの歌詞に端を発し、DID人口、港湾区分などの具材をじっくり煮込んだ、美味しい「港町料理」を食した気分になりました。地理を暗記科目とか言って軽く見る人もいますが、それは違うと思う。いろいろな要素を絡ませて推論し、自分なりの結論を導き出す。暗記だけでは済まされない。これが地理の楽しみですね。
 ♪「港町ブルース」に三崎、焼津と並んで御前崎が登場するのには、私も違和感を感じていました。それと山本譲二の♪「奥州路」に「旅の衣に おもかげ抱けば きらり 遥かに 最上川」とありますが、「ジョージ、それはないだろう!」と言いたい。最上川は奥州じゃなくて羽州だろうに。それから北島三郎の♪「風雪ながれ旅」の歌詞「アイヤー アイヤー 津軽 八戸 大湊」も変ですよ。二番目の歌詞には「小樽 函館 苫小牧」が出てくるから、「街」の名を盛り込んでいるはずなのに、なんで「津軽」だけが地方名なのか。「野辺地 八戸 大湊」ではだめなのか。作詞した星野哲郎の声が草葉の陰から聞こえます。「アイヤー 野辺地ではだめなんだ! 『津軽』があってこその『風雪ながれ旅』なんだ」。ごもっともです。流行歌の歌詞と地理の整合性について考えるは「あしたのこころだ〜」にしておこう。 千本桜歌麿
地理と地域白桃さんの地理雑学講座>♪「港町ブルース」考