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金ヶ瀬(かながせ)は奥州街道に発達した宿場町で、本町と新町から成る。本町は白石の片倉家、新町は仙台の伊達家の領地である。町の長さは、およそ1,150メートル。途切れのない一連の町並みだが、町の中央を境に家向きが一変する不思議な町だ。この町には、誰もが信じて疑わない俗説がある。本町と新町は互いに反目し、背中合わせに家を建てたと言うのだ。本町は片倉様の白石城へ、新町は伊達様の仙台城へ向かって玄関・縁側を配置したと言うのだから面白い。この俗説は、大河原町史や角川日本地名大辞典にも史実として記述され、今では動かぬ定説となっている。だが、その真相はいかに!
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図1は、筆者が2002年に調査した金ヶ瀬宿の家向き分類である。奥州街道の宿場町・金ヶ瀬は、片倉領本町と伊達領新町が合体した町である。家屋は中央バス停付近の地点Aで向きを変え、片や白石方向、片や仙台方向を向く。この町には誰もが信じて疑わない俗説がある。本町は片倉領だから白石を向き、新町は伊達領だから仙台を向くという「家向き俗説」である。
しかし、大正時代以前の文献には、家向きに関する記述が見当たらない。口伝はいざ知らず、筆者の知るかぎり、文献に家向きが登場するのは昭和45年発行、菊地勝之助著「宮城県地名考」が最初である。大正以前には登場しない俗説が、昭和になってから登場するのは不自然である。以下に宮城県地名考(p.311)の一部を書きだす。
「街道を挟んで両側に立並ぶ約百戸の宿場町はこの街村の中央を境として、東部の半分が東向き、西部の半分が西向きという世にも珍らしい現象を見せている。これは藩政時代に於て東部は伊達家直属のお百姓の住んだ平村分で、西部は金ヶ瀬駅と称して片倉家の足軽屋敷が立並んでいた(後略)」
以上、地点Aで家向きが変わるのは、本町が白石の片倉家に、新町が仙台の伊達家に分属し、それぞれが領主の居城に向かって玄関を配置したからだという。だが、それは史実を無視した俗説である。俗説は少し真実を含むもっともらしい話に基づいており、賢い人でもそれを信じて罠にかかるから危ない。
そもそも、俗説は本町と新町の境を間違えているのだ。江戸時代の地誌「安永風土記」には、町の長さ本町3丁12間、新町8丁とある。本町は短く新町は長いのだ。町の長さから判断すると、小学校入口付近の地点Bが本町・新町境になる。しかし、そこを境に家向きが変わるわけではない。 ところが、俗説創作者は、中央バス停付近の地点Aを指し、「ここが本町と新町の境だ。これより西は片倉領で東は伊達領だ。だから家向きが変わるのだ」と勝手な論理を展開し、作り話の俗説を流布した。そして、地点Aで家向きが一変するのを見た人たちは、俗説を疑うことなく史実と信じた。罠にかかったのである。 今も大河原町史など多くの地誌が宮城県地名考に随従し、地点Aで家向きが一変するのは領主が異なるためだとして、俗説を真実であるかのように書き続けている。筆者は俗説の間違いを明らかにし、金ヶ瀬宿の正しい歴史を後世に伝えるために本校を記す。 |
本稿をまとめるにあたり、おりにふれて聞き取り調査をしてきた。聞き取りは、「金ヶ瀬に伝わる家向きの話を知っていますか、その話を信じますか」といった簡単なものだが、金ヶ瀬住民の多くがこの俗説を知っていて、しかも事実だと信じているのだ。もはや、定説となっているのである。しかし、歴史は真実でなければならず、間違いは訂正されなければならない。
次に実行したのは文献調査である。金ヶ瀬宿の「家向き俗説」が本当なら、江戸時代や明治時代の文献に記録されているはずである。しかし、家向きに関する記述は見あたらない。口伝はいざ知らず、筆者の知るかぎり、文献に家向き記事が登場するのは、昭和45年発行「宮城県地名考」が最初である。 宮城県地名考は、家向きが転換する理由として、片倉家・伊達家への分属をあげている。本町と新町の家向きが異なるのは、領主が異なるためだという。それは面白い話だが、事実ではない。しかし、それ以降の出版物は角川日本地名大辞典を筆頭に、おもしろ話の「家向き俗説」をこぞって書きはじめた。大河原町史も同じである。そして「家向き俗説」は定説となった。 定説をくつがえすのは難しい。それでも折れずに本稿をまとめることができたのは、確実な根拠をつかんでいたからである。安永風土記に記された「本町3丁12間」と、柴田郡誌(大正版))に記された「現在の小学校の所で東部柴田郡、西部刈田郡に分属していた」という文言である。本町の長さ3丁12間は約350mで、西口木戸から小学校入口付近までの距離にあたる。これで、本当の境は小学校入口付近にあり、町の中央を境とする俗説は嘘だとわかった。 本稿では、俗説の嘘を立証するために、検断の位置と契約講の編成区域にも言及した。また、誰もしなかったであろう金ヶ瀬宿絵図の読み解きもおこなった。筆者は、この金ヶ瀬宿絵図を読み解くことで、小学校入口付近が片倉領本町と伊達領新町の境であることを確信したのである。なお、契約講の編成区域を調べるにあたり、佐藤義晴氏、安喰力男氏、小野豊人氏、富川晴男氏、角田哲男氏より資料を提供していただいた。ありがとうございました。 「家向き俗説」は、もっともらしいので嘘を見破るのが難しい。2つの真実を含んでいるからだ。片倉と伊達への分属は真実であり、町の途中で家向きが転換するのも真実である。俗説はこの2つの真実を餌にして罠を仕掛けたのだ。真実を2つも並べられたら誰も疑わない。しかし、その2つを結びつけ、「片倉領だから白石を向き、伊達領だから仙台を向く」としたときに、その話は嘘になる。「片倉・伊達への分属」と「家向き転換」には、因果関係がないからである。 |
安永年間書上 安永風土記(平村風土記御用書出) 解読:宮城県史23 風土記 資料編1 1903年発行 柴田郡誌(明治版) 編者:柴田郡教育会 1925年発行 柴田郡誌(大正版) 編者:柴田郡教育会 1953年発行 変りゆく宿場のおもかげ 発行者:白石女子高等学校郷土研究班 1970年発行 宮城県地名考 ~地方誌の基礎研究~ 著者:元宮城県図書館長 菊地勝之助 1979年発行 角川日本地名大辞典 4 宮城県 発行所:角川書店 1982年発行 大河原町史 通史編 編集:大河原町史編纂委員会 1982年発行 ふるさと想い出写真集 明治 大正 昭和 柴田郡 編著:大泉光雄 1984年発行 大河原町史 諸史編 編集:大河原町史編纂委員会 1987年発行 日本歴史地名大系 第4巻 宮城県の地名 発行所:平凡社 1987年発行 蔵王町史 資料編 I 編集:蔵王町史編さん委員会 発行年不明 金ヶ瀬地区文化財めぐり 著者:大河原町文化財保護委員 鈴木吉之助 1992年発行 交流する伝説 ~豊後の真野長者伝説から奥州の白鳥伝説へ~ 著者:平川 新 1994年発行 蔵王町史 通史編 編集:蔵王町史編さん委員会 2000年発行 「平」の変遷 無くなった地名への愛執 著者:山家幸内 2016年発行 城下町・門前町・宿場町がわかる本 著者:外川 淳 地図・空中写真 1907年測量 国土地理院5万分の1地形図 「白石」 1931年要修 国土地理院5万分の1地形図 「白石」 1947年撮影 国土地理院空中写真 USA-R433-42ほか多数 1976年発行 ゼンリンの住宅地図 「柴田郡大河原町」 |
付録-2 金ヶ瀬の地名由来
昭和45年発行の宮城県地名考(p.311)は、「金ヶ瀬という地名は他地方には1か所かも見当たらない」と記述している。しかし、調べると山形県上山市金谷に「金ヶ瀬」という小字があり、生野銀山で知られる兵庫県朝来市生野町には「金香瀬(かながせ)坑」という名の坑口があることも分かった。「金香瀬坑」を「金ヶ瀬坑」と表記している文献もある。そこで、上山市と朝来市に「金ヶ瀬」の地名由来を問い合わせたところ、朝来市からは回答が得られなかったが、上山市から回答をいただいたので、以下に全文掲載する。
金谷の字名「金ケ瀬(カナガセ)」の地名由来について カナ(金)は、船で、セ(瀬)は、セキトメル。そのことから、「船を繋ぎ止める所に由来するもの」という一説があります。金谷地区には、蔵王山から「蔵王川」が流れ下っていますが、鉱毒水であり用水としては難しい水でありました。しかし、金谷の西側を流れる「須川」の水は用水として使用されました。小舟による諸用事は行われていたと思われます。また、上山藩が、天保年間に、米輸送のため最上川から船を上らせたこともありました。 (『上山三家見聞日記』) 以上が上山市金谷字金ヶ瀬の地名由来の一説である。つぎに大河原町史通史編(p.401)から大河原町金ヶ瀬の地名由来を書き出す。 「金ヶ瀬という地名はもともと刈田郡宮村の、今の北白川入口バス停留所から二ツ坂附近にかけての集落名である。(中略)白石川はこのころ、今の大高山神社下から国道沿いに北流しており、刈田郡境からは早瀬となって小豆色の地肌を洗って流れたので金気のある瀬、すなわち「金ヶ瀬」と呼んだものと思われる。小豆坂又は赤坂といわれたのもこの付近の岩盤の色からつけられた名称である」 以上の文章を図化したのが図28である。地名由来には諸説あって、どれが真実か分からないが、大河原町史の記述には違和感がある。金ヶ瀬の故地である蔵王町宮字二坂付近を観察すべきなのに、現在の大河原町金ヶ瀬の地を観察しているのがおかしい。たとえ小豆坂(赤坂)のせいで川の瀬が金気色になったとしても、上流に位置する蔵王町宮字二坂付近までが金気色に染まるとは思えない。 |
付録-3 AKIRA OGATAさんの金ヶ瀬宿に関するYouTube
令和元年の佐藤屋プロジェクト10周年記念企画展「大河原と奥州街道」に際し、尾形彰さんが制作した金ヶ瀬宿に関する動画です。
付録-3-1 大河原の奥州街道 金ヶ瀬宿の成り立ち 付録-3-2 大河原の奥州街道 金ヶ瀬宿古図 付録-3-3 大河原の奥州街道 小豆坂(赤坂) 付録-3-4 大河原の奥州街道 鈴木翁碑 付録-3-5 大河原の奥州街道 お笛田(平間家) 付録-3-6 大河原の奥州街道 薬師堂(板碑群) 付録-3-7 大河原の奥州街道 大高山神社への道標 |
地理と地域>金ケ瀬宿の家向き俗説
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