地理と地域
金ケ瀬宿の家向き俗説
制作:千本桜 歌麿
設置日:2021.1.22
最終更新日:2021.2.8
E-mail:tiritotiiki@gmail.com
地図 地図
 金ヶ瀬(かながせ)は奥州街道に発達した宿場町で、本町と新町から成る。本町は白石の片倉家、新町は仙台の伊達家の領地である。町の長さは、およそ1,150メートル。途切れのない一連の町並みだが、町の中央を境に家向きが一変する不思議な町だ。この町には、誰もが信じて疑わない俗説がある。本町と新町は互いに反目し、背中合わせに家を建てたと言うのだ。本町は片倉様の白石城へ、新町は伊達様の仙台城へ向かって玄関・縁側を配置したと言うのだから面白い。この俗説は、大河原町史や角川日本地名大辞典にも史実として記述され、今では動かぬ定説となっている。だが、その真相はいかに!
目 次
はじめに
第1章 金ヶ瀬宿の成り立ち
 1-1 木戸の位置と本町・新町境
 1-2 本町の成り立ち
 1-3 新町の成り立ち
 1-4 金ヶ瀬宿の特徴
第2章 文献から見た「家向き俗説」の発生と定着
 2-1 安永風土記 平村風土記御用書出 (安永年間完成)
 2-2 柴田郡誌 明治版 明治36年(1903年)発行
 2-3 柴田郡誌 大正版 大正14年(1925年)発行
 2-4 宮城県地名考 〜地方誌の基礎研究〜 昭和45年(1970年)発行
 2-5 角川日本地名大辞典 4 宮城県 昭和54年(1979年)発行
 2-6 大河原町史 通史編 昭和57年(1982年)発行
 2-7 日本歴史地名大系 第4巻 宮城県の地名 昭和62年(1987年)発行
 2-8 金ヶ瀬地区文化財めぐり 発行年不明
 2-9 蔵王町史 通史編 平成6年(1994年)発行
第3章 「家向き俗説」は嘘
 3-1 本町の範囲をもって立証する
 3-2 検断の位置をもって立証する
 3-3 契約講の編成区域をもって立証する
 3-4 金ヶ瀬宿絵図をもって立証する
第4章 家向きが転換する理由
 4-1 街道の屈曲と家向き
 4-2 家屋の向き方による宿場町の分類
第5章 平間家の家向き
 5-1 真野長者伝説とお笛田
 5-2 平間家の北向き住宅
おわりに
参考文献
付録
 付録-1 地図で見る金ヶ瀬の区画変遷
 付録-2 金ヶ瀬の地名由来
 付録-3 AKIRA OGATAさんの金ヶ瀬宿に関するYouTube
はじめに
地図
 図1は、筆者が2002年に調査した金ヶ瀬宿の家向き分類である。奥州街道の宿場町・金ヶ瀬は、片倉領本町と伊達領新町が合体した町である。家屋は中央バス停付近の地点Aで向きを変え、片や白石方向、片や仙台方向を向く。この町には誰もが信じて疑わない俗説がある。本町は片倉領だから白石を向き、新町は伊達領だから仙台を向くという「家向き俗説」である。
 しかし、大正時代以前の文献には、家向きに関する記述が見当たらない。口伝はいざ知らず、筆者の知るかぎり、文献に家向きが登場するのは昭和45年発行、菊地勝之助著「宮城県地名考」が最初である。大正以前には登場しない俗説が、昭和になってから登場するのは不自然である。以下に宮城県地名考(p.311)の一部を書きだす。
「街道を挟んで両側に立並ぶ約百戸の宿場町はこの街村の中央を境として、東部の半分が東向き、西部の半分が西向きという世にも珍らしい現象を見せている。これは藩政時代に於て東部は伊達家直属のお百姓の住んだ平村分で、西部は金ヶ瀬駅と称して片倉家の足軽屋敷が立並んでいた(後略)」
 以上、地点Aで家向きが変わるのは、本町が白石の片倉家に、新町が仙台の伊達家に分属し、それぞれが領主の居城に向かって玄関を配置したからだという。だが、それは史実を無視した俗説である。俗説は少し真実を含むもっともらしい話に基づいており、賢い人でもそれを信じて罠にかかるから危ない。
 そもそも、俗説は本町と新町の境を間違えているのだ。江戸時代の地誌「安永風土記」には、町の長さ本町3丁12間、新町8丁とある。本町は短く新町は長いのだ。町の長さから判断すると、小学校入口付近の地点Bが本町・新町境になる。しかし、そこを境に家向きが変わるわけではない。
 ところが、俗説創作者は、中央バス停付近の地点Aを指し、「ここが本町と新町の境だ。これより西は片倉領で東は伊達領だ。だから家向きが変わるのだ」と勝手な論理を展開し、作り話の俗説を流布した。そして、地点Aで家向きが一変するのを見た人たちは、俗説を疑うことなく史実と信じた。罠にかかったのである。
 今も大河原町史など多くの地誌が宮城県地名考に随従し、地点Aで家向きが一変するのは領主が異なるためだとして、俗説を真実であるかのように書き続けている。筆者は俗説の間違いを明らかにし、金ヶ瀬宿の正しい歴史を後世に伝えるために本校を記す。
第1章 金ヶ瀬宿の成り立ち
 金ヶ瀬宿は、陸奥国柴田郡平村の奥州街道沿いに発達した宿場町で、金ヶ瀬駅や金ヶ瀬町とも呼ばれた。金ヶ瀬宿の成り立ちについては、大河原町史などに詳しく書いてあるが、図解がたりない。たとえば「本町の長さ3丁12間」と書いてあっても、どこからどこまでなのか具体的な位置が図示されていない。本章は空中写真と地図を用いて図解し、金ヶ瀬宿の成り立ちを書き進める。
1-1 木戸の位置と本町・新町境
地図  金ヶ瀬宿の長さは、安永風土記に11丁12間(1,222m)、柴田郡地誌(皇国地誌)に9丁30間(1,036m)と書いてある。しかし、筆者の計測では10町33間(1,150m)になる。町の長さは、図2のように木戸を起点として測る。木戸の位置は、道路・水路・字界から推理し、西口木戸を字町3番地付近に置き、東口木戸を字町100番地付近に置く。ただし、あくまでも「付近」である。
 つぎに、西口木戸を起点に、安永風土記に書いてある本町の長さ3丁12間(約350m)の線を引く。すると、駐在所から佐藤商店にかけての小学校入口付近に到達する。そこが本町の終点であり、新町の起点である。つまり、本町・新町境である。図2に、少し幅をもたせて本町・新町境を示した。現代では中央バス停付近を境とする説が定説となっているが、それは間違いである。
1-2 本町の成り立ち
地図  本町の成り立ちについては、鈴木吉之助著「金ヶ瀬地区文化財めぐり」(p.38)に詳しい記述があるので以下に引用する。ただし、引用にあたっては、原文の片仮名書きを平仮名に、漢数字を算用数字にあらためた。
 「寛永14年(1637)6月、伊達藩主二代忠宗の代であるが、伊達治家記録に、『6月23日朝より大雨。24日雨止まず。25日雨止まず。26日洪水、広瀬川暴漲御城前の橋残らず流出、御領内悉く洪水なり。人馬溺死し家屋田畑大に破損、当国前代未聞の洪水と云う。仙台より刈田郡白石までの間溺死する者64人馬202匹家数1,110軒流亡す』とある。
 この洪水によって、宮村金ヶ瀬宿は悉く流出して砂礫の河原と化した。宅地では再建しようにもその方策がたたなかった。そこで領主の片倉重長が伊達藩主忠宗に請願して、柴田郡平村の畑地1貫442文を拝領して宅地として屋敷割りを実施して、侍1、町足軽27、百姓修験1、百姓16、計45軒を移転させたのである。洪水の水害を受けてから5年後の寛永19年(1642)8月のことであった。宮村金ヶ瀬宿の集団移転の新生地として再び宿駅業務を開始したのである。その故地は蔵王町宮向山鴨田、竹花、黄金田、篭石の4字にわたるもので、このうち篭石のお稲荷さん周辺の6軒はそのまま残った」
引用は以上である。
 刈田郡宮村の金ヶ瀬宿(現在の蔵王町宮字二坂周辺)は洪水で流され、住民は柴田郡平村(現在の大河原町金ヶ瀬)に移り住んだ。その場所は図3のとおりで、西口木戸から小学校入口付近まで長さ約350mの町場をつくり、金ヶ瀬宿として宿駅業務にたずさわった。のちに新町が増設されたため、本町と呼ばれる。
1-3 新町の成り立ち
地図  新町の成り立ちについても「金ヶ瀬地区文化財めぐり」(p.44)を引用する。ただし、原文の片仮名書きを平仮名に、漢数字を算用数字にあらためた。
 「寛永19年(1642)8月に、金ヶ瀬本町の宿場町が成立したが、それから79年後の享保6年(1721)に成立したのが新町である。
 先に、平村の南西部に引っ越してきて町場をつくり、金ヶ瀬宿として駅伝馬の業務に携わってきた本町の足軽や百姓たち44軒は、貨客の漸増に伴ってどうしても処理できなくなったのである。そこでことの由を領主の片倉家へ訴えて善処の要望となった。これを受けた片倉家では、隣接地に住む平村の百姓に応援を頼むよりほか処置なしと、再び伊達藩に願い出たのである。
 この願いは、享保5年8月2日に正式に藩庁に提出されている。翌3日藩庁からの回答があった。新町の建設は聞き届けられたのである。しかし、その場所は90軒分しかなかったので、34軒は居残りとなった。
 そして、丑越北方の薬師堂から新開前、さらに金ヶ瀬中学校にかけての場所から新町へ強制移住させられた平村の百姓たちであった。今でもこれらの地域に畑地が点在し、墓石や石祠も見られ、また元屋敷と呼ばれ屋敷神が残されているところもある。薬師・杓子木・宮前・四小路などの囲名のところであるが、ここは薬師堂や地蔵堂も建てられ村の中心をなしていたのである」
引用は以上である。
 新町は平村の百姓が街道筋に移住してできた町である。その場所は図4のとおりで、小学校入口付近から東口木戸まで長さ約800mの町場をつくり、本町とともに金ヶ瀬宿として宿駅業務にたずさわったのである。
1-4 金ヶ瀬宿の特徴
地図  図5は明治時代の地形図で、金ヶ瀬宿が描かれている。およそ1,150mにおよぶ町並みは、近隣の宮宿、船迫宿、槻木宿などと比べて明らかに長く、褌町と揶揄された。寛延4年(1751)の道中図「増補行程記」は、金ヶ瀬宿について「宿 余程長し」と記している。
 金ヶ瀬宿には2つの特徴がある。1つは、図6のように、小学校入口付近で片や本町、片や新町に分かれ、本町は白石の片倉家に属し、新町は仙台の伊達家に属していたことである。本町と新町は途切れのない一連の町並みだが、異なる領主に分属する珍しい町であった。
 もう1つの特徴は、図7のように、中央バス停付近で街道が屈曲し、片や白石方向、片や仙台方向に家向きが転換することである。街道の屈曲は宿場町を造成した当時の白石川の流路が影響し、家向きの転換は日当りや風向きを考慮した結果と考えるのが自然である。つまり、片倉領と伊達領に分かれていることと家の向き方には関連性がない。それは図7を見ればわかる。本町・新町境と家向き転換点は場所が異なるのである。
 しかし、あるとき誰かが図8のように言ったのだ。中央バス停付近の家向き転換点を指し、「ここが片倉領と伊達領の境である。だから、ここで家向きが転換するのだ」と。それは史実を無視した作り話であるが、史実より数段おもしろい。こうして金ヶ瀬宿は、片倉と伊達に分かれて反目し、背中合わせに家を建てた珍しい町として流布されて行くのである。
第2章 文献から見た「家向き俗説」の発生と定着
 金ヶ瀬宿の家向き俗説は、口伝や文献によって世間に広まった。しかし、江戸・明治・大正の文献には家向きに関する記述が見当たらない。このことから、家向き俗説は昭和になって文献に登場した作り話だと推測する。この章では、地誌は金ヶ瀬宿をどのように記述してきたか、江戸時代から現代に至るまでの文献を検証し、家向き俗説の嘘を明らかにする。
2-1 安永風土記(平村風土記御用書出)
  安永風土記完成:安永年間 (1772〜1781)
  平村風土記御用書出 書出人:柴田郡南方平村 肝入 五郎左ェ門
 安永風土記は、仙台藩が領内の様子を把握するために、すべての村々から提出させた地域の記録である。「宮城県史23 風土記 資料編1」に解読活字版が収録してあるので、以下に引用する。ただし、引用にあたっては、原文の旧字体を新字体に、片仮名書きを平仮名に、漢数字を算用数字にあらため、状況に応じて句読点を挿入するなど、筆者が手を加えている。
 「(前略)刈田郡金ヶ瀬町先年洪水之節町場之被押流、当村之地之内に右金ヶ瀬町相立申候処、小宿困窮御伝馬相勤兼、享保6年右金ヶ瀬町之者共品々奉願御吟味之上、金ヶ瀬町続江新町場御割足、平村人頭83人、名子44人、合127人之内、人頭名子共に93人新町場江取移、残人頭名子共に34人は右町裏屋敷之者共直々元屋敷に罷有、御伝馬相勤候様被成下、享保6年より町場に罷成り、平村高一円御伝馬仕者高に被成下候事。(中略)当村町場之儀、享保6年取移申候節被仰渡町場之儀に付、候而は刈田郡金ヶ瀬町と申銘儀に被成下、刈田御扱に罷成御田地高人数之儀に付、候而は柴田郡平村と申銘儀に而柴田御扱に御座候。右町内本町長さ3丁12間、家数44軒。新町長さ8丁、家数 93軒。都合丁数11丁12間、家数137軒御座候。(後略)」
 以上、安永風土記は金ヶ瀬宿の成り立ちを記しているが、家向きについては触れていない。家向きに関する俗説は、のちの世になって創作された作り話で、江戸時代には存在しなかったからだと推測する。
 安永風土記は、金ヶ瀬宿の長さを本町3丁12間、新町8丁、合計11丁12間と記している。しかし、本町は「3丁12間」と間数まで書いてあるのに、新町については「8丁」の後に間数の記載がなく、不自然である。ちなみに、角田本町は3丁3間、船迫中町は1丁27間と記され、白石本町にいたっては3丁7間3尺と尺数まで記してある。筆者の測定では、新町の長さは約7丁20間(800m)となる。
2-2 柴田郡誌(明治版)
  明治36年 (1903) 発行 編纂 柴田郡教育会
 柴田郡誌は、郡内の小学校において郷土教育の手助けとなることを目的として編纂された。以下に、柴田郡誌(p.13)より金ヶ瀬宿に関する記述を要約する。
 「金ヶ瀬の市街は藩政の頃、おおよそ中央を境に二分して柴田、刈田の両郡に分属し、東方は柴田郡平村と称し、西方は刈田郡金ヶ瀬驛と称していた。その間、山脈、河川等の境界もなく、ただ一條の細路があるだけで、ちょっと不思議がられる所だった。その由来を尋ねると、昔、刈田郡宮村の皮籠石(かごいし)という所に集落があったが、寛永14年の大洪水で集落は押し流され、現地での復興は見通しが立たなくなった。そこで寛永19年8月、柴田郡平村の内に畑代1貫402文(注・正しくは442文)の知行を受けて住民を移住させた。これが金ヶ瀬市街の両郡に分属する理由である」
 以上、金ヶ瀬宿が柴田・刈田両郡に二分されること及びその理由が書かれている。しかし、家向きについては何も書かれていない。「家向き俗説」は昭和になってからの作り話で、明治時代には存在しなかったからだと思われる。なお、市街の中央付近を郡境としているが、これは柴田郡教育会の誤認識である。江戸時代編纂の安永風土記には、金ヶ瀬宿の長さ、本町3丁12間、新町8丁とある。本町は短く、新町は長いのだ。したがって、町の中央が境であるはずがない。
2-3 柴田郡誌(大正版)
地図   大正14年 (1925) 発行 編纂 柴田郡教育会
 柴田郡誌(大正版)(p.172)は、「現在の平区、即ち金ヶ瀬の宿駅をなしている所は、旧藩政の頃までは、現在の小学校の所で東部柴田郡、西部刈田郡に分属していた」と記している。郡誌(明治版)は町の中央を郡境としていたが、郡誌(大正版)は、それを訂正して小学校の所が郡境だと明記している。
 図9に柴田郡誌(大正版)による柴田・刈田の郡境を示した。小学校の所を郡境とすると、現在の行政区1・2区が本町で、3〜6区が新町となる。したがって、1〜3区を本町、4〜6区を新町とする俗説は嘘になる。ただし、郡誌は郡境に触れているが、家向きについては触れていない。大正時代にはまだ、家向き俗説が存在しなかったからだと推測する。
2-4 宮城県地名考 ~地方誌の基礎研究~
地図   昭和45年 (1970) 発行 著者 菊地勝之助
 口伝はともかく、大正時代以前の文献には、金ヶ瀬宿の家向きに関する記述が見当たらない。筆者の知る限り「家向き俗説」が文献に登場するのは、この宮城県地名考が最初である。図10に宮城県地名考による片倉家・伊達家の境を示す。
 宮城県地名考(p.311)は「この街村の中央を境として、東部の半分が東向き、西部の半分が西向きという世にも珍らしい現象を見せている。これは藩政時代に於て東部は伊達家直属のお百姓の住んだ平村分で、西部は金ヶ瀬駅と称して片倉家の足軽屋敷が立並んでいた」と記述し、町の中央(中央バス停付近)で家向きが変わるのは、東部に伊達家の百姓、西部に片倉家の足軽が居住したことに由来するとしている。もともとは因果関係のない「家向きの転換」と「片倉・伊達への分属」を結びつけ、逸話として紹介しているのだ。こうして、文献に金ヶ瀬宿の「家向き俗説」が登場した。
2-5 角川日本地名大辞典 4 宮城県
  昭和54年 (1979) 発行 編者 「角川日本地名大辞典」編纂委員会
 地名・地理・歴史の研究者及び全国の郷土史家からなる編纂委員の偉業として日本辞書史に輝く地誌である。奥付の執筆者一覧から判断して、金ヶ瀬宿に関する執筆は平間喜栄氏と思われる。以下に金ヶ瀬宿の記事(p.172)を引用する。
 「金ヶ瀬宿 江戸期の宿駅名。柴田郡平村のうち。本(もと)町と新(しん)町の2町から成る。(中略)本町は片倉の知行、新町は仙台藩の蔵入地である(安永風土記)。このため本町の家並みはすべて白石方向の西向、新町は反対に仙台方向の東向と対照的に背中合わせになっている。(中略)本町の長さ3丁12間、家数44、新町長さ8丁、家数93、都合11丁12間、家数137。(後略)」
 以上であるが、記述には矛盾がある。宮城県地名考に随従し、町の中央を境に見立てたうえで、本町の長さ3丁12間、新町の長さ8丁と記している。本町と新町の長さは五分五分ではないから、町の中央が境であるはずがない。しかし、角川日本地名大辞典は知ってか知らでか、作り話を実話のように書いて、金ヶ瀬宿の「家向き俗説」を全国に拡散した。そののちに出版された大河原町史・日本歴史地名大系・金ヶ瀬地区文化財めぐり・蔵王町史などの地誌も同様である。
2-6 大河原町史 通史編
  昭和57年 (1982) 発行 編者 大河原町史編纂委員会
 大河原町史は、郷土の歴史を後世に伝えるために企画され、平間喜栄氏・関谷一男氏等によって編纂された。以下に、大河原町史(p.405)より金ヶ瀬宿の成り立ちに関する記事を引用する。
 「(前略)享保6年成立のこの新しい町場が新町で、伊達藩直轄の御百姓町である。一方本町は寛永19年にできた片倉家の足軽と百姓の町で、この二つが合併して金ヶ瀬町が成立した。こうした宿縁から、本町は白石向き、新町は仙台向きの相反する家向きになったという。(中略)金ヶ瀬村は本町3丁12間、44軒、新町長サ8丁、93軒、都合長サ11丁12間、137軒あったと記されている」(ママ)
 以上であるが、角川日本地名大辞典と同様に、因果関係のない「家向きの転換」と「片倉・伊達への分属」を結びつけ、金ヶ瀬を風変わりで特殊な町のように記述している。確かに「片倉・伊達への分属」は特殊だが、「家向きの転換」は珍しいことではない。町の途中で街路が「く」の字に屈曲するので、おのずと家向きも転換し、片や白石方向、片や仙台方向を向いただけである。
 そもそも、大河原町史は「こうした宿縁から、本町は白石向き、新町は仙台向きの相反する家向きになったという」と記述しているが、誰が言ったかを書いていない。宮城県地名考の影響を受けたと推測するが、その宮城県地名考にしても出典元を書いていない。根拠がないのである。しかし、大河原町史の発行により、「家向き俗説」はお墨付きの定説となったのである。
2-7 日本歴史地名大系 第4巻 宮城県の地名
  昭和62年 (1987) 発行 著者 平凡社
 日本歴史地名大系 第4巻 宮城県の地名(p.159)は、金ヶ瀬宿について「街道筋に面して一連の町場を形成したが、本町は片倉家の足軽として、新町は伊達氏直属の百姓として互いに反目、大部分の住家は本町は南西の白石、新町は北東の仙台方向を表向きにして建てられている(柴田郡誌など)」と記述している。
 日本歴史地名大系は本町・新町境の位置を特定していない。しかし、「大部分の住家は本町は南西の白石、新町は北東の仙台方向を表向きにして建てられている」という文言は、家向きが一変する中央バス停付近を境と見ている証拠である。日本歴史地名大系もまた大河原町史と同じで、家向き転換点を本町・新町境としたうえで、因果関係のない「片倉・伊達への分属」と「家向き転換」を結びつけ、史実に反する俗説を流布したことに変わりはない。
2-8 金ヶ瀬地区文化財めぐり
地図   発行年不明 著者 大河原町文化財保護委員 鈴木吉之助
 「金ヶ瀬地区文化財めぐり」は金ヶ瀬在住の郷土史家・鈴木吉之助氏が編纂した私家本である。発行年月日は不明だが、平成初期のものと思われる。B5判、44ページの小冊子であるが、地元の郷土史家ならではの詳しさがあり、金ヶ瀬を知るうえで大切な一冊である。しかし、記述には矛盾がみられる。
 図11は、金ヶ瀬地区文化財めぐりの表紙である。古絵図と諸元表が掲載されていて、ルーペで覗くと、絵図には本町・新町境が記されている。その場所は、現在の駐在所から佐藤商店にかけてで、いわゆる小学校入口付近にあたる。また、諸元表には本町の長さが3丁12間とあり、それは西口木戸から小学校入口付近までの距離に相当する。表紙から読み取れる本町・新町境は、小学校入口付近である。
 しかし、本文では一転し、本町は現在の1区〜3区、新町は4区〜6区と書いている。結局、中央バス停付近の家向き転換点を本町・新町境としているのだ。これは鈴木氏の誤認識である。
2-9 蔵王町史 通史編
  平成6年 (1994) 発行 編集 蔵王町史編さん委員会
 蔵王町史にも金ヶ瀬宿の記述がある。執筆者一覧から判断して、平間喜栄氏の執筆と思われる。以下、蔵王町史 通史編(401p)から引用する。
 「本町は片倉家足軽として、新町は伊達氏の百姓として互いに反目し、家屋も本町は南西の白石を、新町は北東の仙台方面を表向きにして建てられている」
 引用は以上であるが、有り得ない話である。家屋も本町は白石を、新町は仙台方面を表向きにすると書いてある。これは、中央バス停付近の家向き転換点を本町・新町境と見ている証拠である。そして、本町と新町は互いに反目していたとも書いてある。つまり、家向き転換点を境に、1〜3区と4〜6区が反目していたことになる。だが、3区と4区は江戸時代から現代に至るまで、同じ契約講のもとに強い地縁で結ばれてきたのである。契約講で結ばれた者同士が反目し合うはずがない。平間氏は本町・新町境の位置を間違えているのである。
第3章 「家向き俗説」は嘘
 口伝はいざ知らず、本町は片倉領だから白石を向き、新町は伊達領だから仙台を向くという「家向き俗説」が文献に登場したのは、筆者の知る限り昭和になってからである。俗説は史実として町史にも記載され、今では定説となっている。だが、この俗説は嘘である。本章は確かな根拠をもって俗説の嘘を立証する。
3-1 本町の範囲をもって立証する
 金ヶ瀬宿の長さは、安永風土記に11丁12間、柴田郡地誌(皇国地誌)に9丁30間とあるが、筆者の計測では約1,150mになる。内訳は本町約350m、新町約800mで、本町は新町の半分に満たない。したがって、町の中央の家向き転換点が境であるはずがない。以下に本町の範囲を図化して検証する。
地図
 図12は俗説の本町である。家向き転換点を起点に長さ350mの本町を描く。すると、高橋源市宅付近に達するが木戸には届かず、検断は町の外になる。検断が町の外にある宿場は考えにくい。したがって、家向き転換点を本町・新町境とする俗説は嘘となる。
 図13は本当の本町である。木戸を起点に長さ350mの本町を描く。すると、小学校入口付近に到達し、検断は町の中心に収まる。これで木戸から小学校入口付近までが本町だと分かる。
 図14は本町・新町境の詳細図である。Aは家向き転換点で、これより西の家屋は白石を向き、東の家屋は仙台を向く。Bは本町・新町境で、これより西は片倉領、東は伊達領であった。AとBは場所が違うので、家向きと領主は無関係だと分かる。
3-2 検断の位置をもって立証する
地図
 金ヶ瀬宿に伝わる「家向き俗説」の嘘は、検断の位置をもって立証することができる。地図を描いて検証するが、地図を描く作業を通して、嘘と真が鮮明に見えてくるのである。
 図15は、菅生宿、滑津宿、斎川宿、貝田宿における検断の位置を示している。共通点は、いずれの検断も町の中央に位置していることである。上戸沢宿のように、検断を町の入口付近に配置した例もあるが、検断や本陣は町の中心部に位置するのが一般的である。
 ただし、規模の大きな宿場町は複数の町から成り立ち、それぞれに検断が置かれていた。たとえば、大河原宿は上町・本町・新田町の3町、白石宿は本町・中町・長町などの6町から成り立ち、各町に検断が配置された。金ヶ瀬宿も本町・新町の2町から成り立ち、双方の町に検断が置かれていた。
 図16は、中央バス停付近を本町・新町境とする俗説の金ヶ瀬宿である。本町検断は本町の西に片寄り、新町検断も新町の西に片寄っている。町の区画と検断の位置が噛み合わないのは、中央バス停付近が嘘の境だからである。
 図17は、小学校入口付近を本町・新町境とする本当の金ヶ瀬宿である。本町検断は本町の中央に、新町検断も新町の中央に位置して収まりがつく。小学校入口付近を本町・新町境としたとき、町の区画と検断の位置関係が整合性を帯びてくるのは、小学校入口付近が本当の境だからである。
3-3 契約講の編成区域をもって立証する
地図  金ヶ瀬宿に伝わる「家向き俗説」の嘘は、契約講の編成区域をもって立証することができる。
 蔵王町史通史編(p.401)は「本町は片倉家足軽として、新町は伊達氏の百姓として互いに反目し、家屋も本町は南西の白石を、新町は北東の仙台方面を表向きにして建てられている」と書いている。文章から判断すると、家向き転換点を境に1〜3区と4〜6区が反目し合っていたことになるが、これは嘘である。家向き転換点を境に3区と4区が反目するなど有り得ない。なぜなら、3区と4区は中組契約講の名のもとに強い地縁で結ばれていたからである。
 図18は、金ヶ瀬宿における契約講の大区分を表している。現代では細分化され、さらには解散した講もあって状況が異なるが、基本は本町・中組・下組の3契約講であったと推測する。おおむね、本町契約講は行政区の1・2区に、中組契約講は3・4区に、下組契約講は5・6区にあたる。
 図19は、家向き転換点を挟んで3区と4区に跨がる中組契約講を表している。現代では「西中組」など複数の講に細分されたが、元は1つである。俗説によれば、3区は片倉領として、4区は伊達領として反目しあっていたことになる。だが、それは有り得ない。3区も4区も共に伊達領新町なればこそ同じ契約講で結ばれ、歴史を重ねてこれたのだ。本町・新町境は3区と4区ではなく、2区と3区の間にある。
 図20は、1区と2区に跨がる本町契約講を表している。現代では「本町西側上組契約講」など4つの講に細分されているが、元は1つだったと推測する。講名に「本町」を冠するのは小学校入口より西側で、東側は「本町」を冠しない。なぜなら、小学校入口付近より東は新町だからである。
3-4 金ヶ瀬宿絵図をもって立証する
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 金ヶ瀬宿に伝わる「家向き俗説」の嘘は、金ヶ瀬宿絵図を読み解くことで立証できる。図21は、大河原町史 通史編(p.191)の金ヶ瀬宿絵図をコピーしたものである。原画はもっと大きいはずだが、町史編纂のおりに縮小したと思われる。小さすぎて読みにくいが、この絵図には非常に重要なことが記されている。赤い楕円で囲んだ中には「是ヨリ丑寅方新町 未申本町 境」と書いてある。つまり、これより北東は新町、南西は本町で、ここが境だと明記してあるのだ。その場所は、駐在所から佐藤商店にかけてで、いわゆる小学校入口付近である。

地図  図22は、絵図に現代のランドマークを加筆したものである。絵図を解読すると、小学校入口付近で片や片倉領本町、片や伊達領新町に分かれるが、ここで家向きは転換しない。境界付近の家々は、片倉領、伊達領にかかわらず、みな白石方向を向いている。このことから、「本町と新町は互いに反目し、それぞれの領主の居城に向かって背中合わせに家を建てた」という俗説は、もろく崩れる。
 しかし、大河原町史や金ヶ瀬地区文化財めぐりは、絵図を掲載しながら読み解かず、家向きが一変する中央バス停付近を本町・新町境としてきた。歴史家や郷土史家までもが俗説の罠にはまったのである。金ヶ瀬宿の家向き俗説は史実として伝えられ、そして定説となった。だが、間違いは訂正されなければならない。
第4章 家向きが転換する理由
 前章では「本町は片倉領だから白石を向き、新町は伊達領だから仙台を向く」という俗説が嘘であり、作り話であることを立証した。しかし、町の中央を境に家向きが転換し、片や白石方向を向き、片や仙台方向を向くのは事実である。それはなぜなのか。この章では、家向きが転換する本当の理由を明らかにする。
4-1 街道の屈曲と家向き
地図  図23は、奥州街道の船迫宿をとらえている。江戸から津軽半島の三厩へ延びる街道は、地点Aで直角に折れ曲がり、上町を南北へ、下町を東西へ通りぬける。つられて家屋の向きも転換し、上町の家屋は江戸方向を、下町の家屋は三厩方向を向いて建つ。
 このような町並みになった要因は地形にある。町場の西に広がる宅地造成地は現在の船迫団地で、もともとはゆるやかな丘陵である。また、東の低地は水田になっているが、昔は白石川の流路であつた。船迫宿の街道は、地形に沿って丘陵と河川の合間を走っているのである。
 図24は、地点Bで屈曲する金ヶ瀬宿をとらえている。船迫宿のように直角に折れ曲がる宿場町は多々あるが、ゆるやかに均整のとれた「く」の字カーブを描く宿場町は珍しく、奥州街道では金ヶ瀬宿と高倉宿(郡山市)だけと言っても過言ではない。この珍しいカーブも、宿場が開設された当時の地形が関係していると考えられる。
 金ヶ瀬宿の南方に、上川原・中川原・土手下・川根という小字がある。昔は河川敷あるいは洪水のたびに遊水する土地で、住むには不向きな土地だったと推測できる。街道はその区域を避けて通ったのである。そのため街道は屈曲し、家屋は日当りや風向きなどの気候を考え、西部地区(1〜3区)は江戸方向に、東部地区(4〜6区)は三厩方向に縁側を配して建つのである。片倉領だから白石を向き、伊達領だから仙台を向くというのは作り話である。
4-2 家屋の向き方による宿場町の分類
地図  宮城県地名考(p.311)は、金ヶ瀬宿について「この街村の中央を境として、東部の半分が東向き、西部の半分が西向きという世にも珍らしい現象を見せている」と書いている。しかし、街道は町の中央で屈曲し、それにつられて家の向く方向が変わっただけだから、珍しいことではない。
 図25は、奥州街道の宿場町を家屋の向き方によって「江戸向き」と「三厩向き」に分類したものである。江戸向きグループには、高清水宿・大河原宿・越河宿などがあり、金ヶ瀬宿西部(1〜3区)もこれに含まれる。このグループは、街道が南北に延びていて、玄関・縁側を南方(江戸方向)に配置している。
 奥州街道では江戸向きグループが多数派で、斎川宿・白石宿・宮宿・岩沼宿・増田宿・中田宿・長町宿・七北田宿・吉岡宿・荒谷宿・築館宿・金成宿など、多くの宿場町は江戸方向を表にして家屋が建ち並んでいる。
 しかし、少数ではあるが三厩向きの宿場町もある。三厩向きグループには、沢辺宿・富谷宿・槻木宿などがあり、金ヶ瀬宿東部(4〜6区)もこれに含まれる。このグループは、街道が東西に延びていて、玄関・縁側を東方(三厩方向)に配置している。宮城県内では、ほかにも三本木宿南町・古川宿七日町および宮野宿で奥州街道が東西に走り、家屋は三厩方向を表にして建っているのである。
 家向きは、街路・日当たり・風向き・地形などに左右されて決まる。金ヶ瀬宿西部(1〜3区)の家屋が南方(江戸方向)を向き、金ヶ瀬宿東部(4〜6区)の家屋が東方(三厩方向)を向いているのは、日当たりを考慮した結果と考えるのが自然である。片倉領本町と伊達領新町が反目しあい、背中合わせに家を建てたという俗説は作り話である。
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第5章 平間家の家向き
 金ヶ瀬宿の「家向き俗説」は明らかに作り話である。しかし、作り話の創作者が想像力あふれる人だったとしても、「本町は片倉領だから白石を向き、新町は伊達領だから仙台を向く」という、奇妙な筋書きを考案するのは難しい。筆者は、この俗説にはモデルがあったと考える。
 本町の平間家は伊達家に恩義を感じ、陽が射さぬのを承知で、仙台向きの北向き住宅を建てたという。「家向き俗説」は、この平間家の家向きをモチーフにして創作された可能性が高い。では、なぜ平間家は伊達家に恩義を感じたのか。これについては、真野長者伝説とお笛田の言い伝えから入っていくことにする。
5-1 真野長者伝説とお笛田
 真野長者の話は豊後国に源を発し、広く全国に分布した長者伝説だが、この伝説は金ヶ瀬にもあった。以下に、平川新著「交流する伝説 ~豊後の真野長者伝説から奥州の白鳥伝説へ~」より、その一部を抜粋する。平川氏は昭和6年発行「郷土の伝承」を引用し、つぎのように書いている。
 「むかし、金ヶ瀬村の赤坂というところに、真野という長者が住んでいた。この長者の家には、体が非常に大きく、力も他の2倍はありそうな牛を1匹飼っていた。たいそう気が荒いので使用人はだれも、この牛を小屋から引きだすことができなかった。長者にはまた、一人の自慢の娘がいた。近在きっての美人で、この娘が道をとおると、野にはたらく人は思わず手を休め、そのうしろ姿が見えなくなるまで見送るほどであった。
 ある、やんごとない方が、東夷を征伐した帰路に長者の家に立ち寄り、その娘を一目みて、あまりの美しさに想いをかけるようになった。それからは、みずから草刈三平と名をあらためて長者の家に住み込むようになり、朝は早くから、この気の荒い牛を引き出して頼母山に連れていった。尊い身をおそれてか、牛はよくなついて、まことにおとなしくなった。草刈りに出かけるときは、いつも笛を吹いていったが、その美声は遠くまで響きわたった。頼母山で草刈りをしている人たちは、いつまでもその笛の音を聞きたいので、草刈りを手伝い、その方は牛の背で笛を吹いた。牛も耳をそばたてて聞いていた。やがて、いつとはなしに、笛の音も聞こえなくなった」

 この物語に登場する「やんごとない方=草刈三平」は、のちに用明天皇となる橘豊日尊である。用明天皇が若いころ頼母山で笛を吹いていたというのだから、あくまでも作り話である。しかし、平間家の祖先が承応・明暦の年間に、頼母山のふもとの荒地を開発すると、地中から光りかがやく笛を発見したというのだ。
 また、平川氏は「奥州観蹟聞老志によると、平間家の先祖が笛を発見したのは、古木の空洞からであるとしていた」とも書いている。笛の出所が、地中だったり、古木の空洞だったり揺れはあるが、頼母山で笛を吹いていた草刈三平、つまり用明天皇の笛である。
 この笛は、平間家に家宝として相伝されたが、寛政年間に伊達家に献上され、褒美として名字帯刀を許されている。そのため、この笛が埋まっていた田圃を「お笛田」と呼んでうやまい、それ以後、決して耕作しなかったといわれている。名字帯刀を許された平間家が、伊達家に恩を感じたのは当然のことである。
5-2 平間家の北向き住宅
地図  右下の写真は昭和44年に解体された旧平間家住宅である。金ヶ瀬宿の町並みは本町を片倉家お足軽といい、新町を伊達家直属のお百姓と呼んだ。平間家は片倉領の本町の中に建つ、ただ一軒の伊達家直属の農家であり、伊達家より名字帯刀を許された家柄である。
 平間家はむかし、街道から少し離れた台部地区にあったが、都合で街道筋の本町に住居をかえた。家は陽が射さないのを承知のうえで、北の仙台方向に向けて建てられた。恩義のある伊達家に足を向けて寝られないというのが、その理由である。
 筆者は、上述の話を親から聞いた。その当時は、まだ茅葺き屋根の平間家が残っており、平間家の北向き住宅を知る人も多かった。しかし、昭和44年に解体され、周辺の家々と同じ南向きに建て替えられた現在では、平間家の北向き住宅の逸話を知る人も少なくなった。
 本町には、検断や山家本家など片倉家ゆかりの家々が居並び、奇しくも家屋は白石向きに建っている。その中にあって、伊達家直属の農家である平間家は、仙台向きに家を建てた。「家向き俗説」の創作者は、この平間家の逸話からヒントを得たに違いない。平間家独自の話を町全体の話に置き換え、町の中央の家向き転換点を本町・新町境に仕立てあげ、「ここで家向きが一変するのは、西は片倉、東は伊達に属するからだ」という、おもしろ話を創作したと考えられる。つまり、金ヶ瀬宿の「家向き俗説」は受けを狙った作り話である。
おわりに
 本稿をまとめるにあたり、おりにふれて聞き取り調査をしてきた。聞き取りは、「金ヶ瀬に伝わる家向きの話を知っていますか、その話を信じますか」といった簡単なものだが、金ヶ瀬住民の多くがこの俗説を知っていて、しかも事実だと信じているのだ。もはや、定説となっているのである。しかし、歴史は真実でなければならず、間違いは訂正されなければならない。
 次に実行したのは文献調査である。金ヶ瀬宿の「家向き俗説」が本当なら、江戸時代や明治時代の文献に記録されているはずである。しかし、家向きに関する記述は見あたらない。口伝はいざ知らず、筆者の知るかぎり、文献に家向き記事が登場するのは、昭和45年発行「宮城県地名考」が最初である。
 宮城県地名考は、家向きが転換する理由として、片倉家・伊達家への分属をあげている。本町と新町の家向きが異なるのは、領主が異なるためだという。それは面白い話だが、事実ではない。しかし、それ以降の出版物は角川日本地名大辞典を筆頭に、おもしろ話の「家向き俗説」をこぞって書きはじめた。大河原町史も同じである。そして「家向き俗説」は定説となった。
 定説をくつがえすのは難しい。それでも折れずに本稿をまとめることができたのは、確実な根拠をつかんでいたからである。安永風土記に記された「本町3丁12間」と、柴田郡誌(大正版))に記された「現在の小学校の所で東部柴田郡、西部刈田郡に分属していた」という文言である。本町の長さ3丁12間は約350mで、西口木戸から小学校入口付近までの距離にあたる。これで、本当の境は小学校入口付近にあり、町の中央を境とする俗説は嘘だとわかった。
 本稿では、俗説の嘘を立証するために、検断の位置と契約講の編成区域にも言及した。また、誰もしなかったであろう金ヶ瀬宿絵図の読み解きもおこなった。筆者は、この金ヶ瀬宿絵図を読み解くことで、小学校入口付近が片倉領本町と伊達領新町の境であることを確信したのである。なお、契約講の編成区域を調べるにあたり、佐藤義晴氏、安喰力男氏、小野豊人氏、富川晴男氏、角田哲男氏より資料を提供していただいた。ありがとうございました。
 「家向き俗説」は、もっともらしいので嘘を見破るのが難しい。2つの真実を含んでいるからだ。片倉と伊達への分属は真実であり、町の途中で家向きが転換するのも真実である。俗説はこの2つの真実を餌にして罠を仕掛けたのだ。真実を2つも並べられたら誰も疑わない。しかし、その2つを結びつけ、「片倉領だから白石を向き、伊達領だから仙台を向く」としたときに、その話は嘘になる。「片倉・伊達への分属」と「家向き転換」には、因果関係がないからである。
参考文献
安永年間書上 安永風土記(平村風土記御用書出) 解読:宮城県史23 風土記 資料編1
1903年発行 柴田郡誌(明治版) 編者:柴田郡教育会
1925年発行 柴田郡誌(大正版) 編者:柴田郡教育会
1953年発行 変りゆく宿場のおもかげ 発行者:白石女子高等学校郷土研究班
1970年発行 宮城県地名考 ~地方誌の基礎研究~ 著者:元宮城県図書館長 菊地勝之助
1979年発行 角川日本地名大辞典 4 宮城県 発行所:角川書店
1982年発行 大河原町史 通史編 編集:大河原町史編纂委員会
1982年発行 ふるさと想い出写真集 明治 大正 昭和 柴田郡 編著:大泉光雄
1984年発行 大河原町史 諸史編 編集:大河原町史編纂委員会
1987年発行 日本歴史地名大系 第4巻 宮城県の地名 発行所:平凡社
1987年発行 蔵王町史 資料編 I 編集:蔵王町史編さん委員会
発行年不明  金ヶ瀬地区文化財めぐり 著者:大河原町文化財保護委員 鈴木吉之助
1992年発行 交流する伝説 ~豊後の真野長者伝説から奥州の白鳥伝説へ~ 著者:平川 新
1994年発行 蔵王町史 通史編 編集:蔵王町史編さん委員会
2000年発行 「平」の変遷 無くなった地名への愛執 著者:山家幸内
2016年発行 城下町・門前町・宿場町がわかる本 著者:外川 淳

地図・空中写真
1907年測量 国土地理院5万分の1地形図 「白石」
1931年要修 国土地理院5万分の1地形図 「白石」
1947年撮影 国土地理院空中写真  USA-R433-42ほか多数
1976年発行 ゼンリンの住宅地図 「柴田郡大河原町」
付録
付録-1 地図で見る金ヶ瀬の区画変遷
地図
付録-2 金ヶ瀬の地名由来
 昭和45年発行の宮城県地名考(p.311)は、「金ヶ瀬という地名は他地方には1か所かも見当たらない」と記述している。しかし、調べると山形県上山市金谷に「金ヶ瀬」という小字があり、生野銀山で知られる兵庫県朝来市生野町には「金香瀬(かながせ)坑」という名の坑口があることも分かった。「金香瀬坑」を「金ヶ瀬坑」と表記している文献もある。そこで、上山市と朝来市に「金ヶ瀬」の地名由来を問い合わせたところ、朝来市からは回答が得られなかったが、上山市から回答をいただいたので、以下に全文掲載する。
 金谷の字名「金ケ瀬(カナガセ)」の地名由来について
カナ(金)は、船で、セ(瀬)は、セキトメル。そのことから、「船を繋ぎ止める所に由来するもの」という一説があります。金谷地区には、蔵王山から「蔵王川」が流れ下っていますが、鉱毒水であり用水としては難しい水でありました。しかし、金谷の西側を流れる「須川」の水は用水として使用されました。小舟による諸用事は行われていたと思われます。また、上山藩が、天保年間に、米輸送のため最上川から船を上らせたこともありました。 (『上山三家見聞日記』)

 以上が上山市金谷字金ヶ瀬の地名由来の一説である。つぎに大河原町史通史編(p.401)から大河原町金ヶ瀬の地名由来を書き出す。
 「金ヶ瀬という地名はもともと刈田郡宮村の、今の北白川入口バス停留所から二ツ坂附近にかけての集落名である。(中略)白石川はこのころ、今の大高山神社下から国道沿いに北流しており、刈田郡境からは早瀬となって小豆色の地肌を洗って流れたので金気のある瀬、すなわち「金ヶ瀬」と呼んだものと思われる。小豆坂又は赤坂といわれたのもこの付近の岩盤の色からつけられた名称である」  以上の文章を図化したのが図28である。地名由来には諸説あって、どれが真実か分からないが、大河原町史の記述には違和感がある。金ヶ瀬の故地である蔵王町宮字二坂付近を観察すべきなのに、現在の大河原町金ヶ瀬の地を観察しているのがおかしい。たとえ小豆坂(赤坂)のせいで川の瀬が金気色になったとしても、上流に位置する蔵王町宮字二坂付近までが金気色に染まるとは思えない。
地図
地理と地域>金ケ瀬宿の家向き俗説