地理と地域白桃さんの地理雑学講座>南奥羽の小さくとも光る街々 2
     
南奥羽の小さくとも光る街々 2
〜福島県北(伊達・飯坂・相馬)〜
     
制作:千本桜 歌麿  設置日:2020.11.7
E-mail:tiritotiiki@gmail.com

「南奥羽の小さくとも光る街々 2」は、白桃市町村人口研究所 白桃酔夢氏からの寄稿です。
執筆:白桃 酔夢  編集:千本桜 歌麿

目 次

はじめに
 岡山で草野球のついでに経済地理学や気候学を教えてくれた若い先生、青森県出身で東北大学の大学院を出たばかり、その方が「けんぽく」って言うので何のことだろうと思ったら「けんほく(県北)」のことでした。それなら、福島県の北部は「ふくぽく」だろうか。どうもそれは違っていて、「ん」の後の「北」を「ぽく」と発音することが多いらしいのです。
 「行稼ぎ」はこれぐらいにして、今回は、福島県北部の街々を訪れてみることにします。(伊達・飯坂・相馬)としておりますが、伊達は現在の伊達市と伊達郡の街々、飯坂はもちろん飯坂温泉、相馬は中村の街です。
 なお、福島県北の街々に関するデータについては、「南奥羽の小さくとも光る街々 1 〜置賜(高畠、小松、宮内・赤湯)〜」とほぼ同様のデータを使用しておりますが、改めて出典、用語の意味等を再掲いたします。

 ①「戸口表」
 市制・町村制が施行される少し前(1886年:明治19年)に行われた人口調査の報告書で正式には「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」といいます。
 市制・町村制施行時には、現在「大字」や「字」と呼ばれているいくつかの集落が合併して新しい「町」や「村」が誕生したケースが殆どですが、「戸口表」で報告されているのは、新しい「町」や「村」ではなく、それ以前の個々の集落の人口です。
 「戸口表」に記載された集落(町村制施行前の町や村)は三つの表に区分され、
第一表は、「市街及び市街の体裁をなしている名邑」
第二表は、「市街の体裁をなしていない名邑」
第三表は、「第一、第二表に記載されていない二百戸以上の集落」
となっており、言うまでもなく「街の格」としては、第一表に記載されているところが上位にきます。現在の街の原型を知る上で貴重な資料です。

 ②昼夜間人口比率
 国勢調査の常住人口(夜間人口)100人に対する昼間人口の比率です。昼間人口とは、【夜間人口+他市町村からの通勤・.通学者−他市町村への通勤・通学者】で、昼夜間人口比率が高いところは、(周囲から人を集める)求心力があることを意味します。

 ③「人口集中地区」(DID)
 昭和35年(1960年)国勢調査に初めて登場してから、各回の国勢調査ごとに設定されています。総務省統計局HPには「人口密度が1平方キロメートル当たり4千人以上の基本単位区等が市区町村の境域内で互いに隣接して、それらの隣接した地域の人口が国勢調査時に5千人以上を有する地域をいう。」と、やや難しく書かれておりますが、「昭和の大合併」によって、従来の市町村単位の統計では把握ができなくなった「都市的地域」の実態を明らかにする必要から生まれた統計上の地区です。

伊達の主役は保原?それとも梁川?
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 よく知っている方に保原出身の方がいて、ある日私に、「はじめて知ったのですが、伊達氏発祥の地は伊達郡だったのですよ。」と話しかけました。私は、「地元の方なのに今まで知らなかったのですか?」とは言わず、「そうなんですか。」と答えましたが・・・。この方、さすがに保原のことは詳しいのですが、梁川のことを訊いてもほとんど知らない。と言うか、関心がないみたい。せっかく一緒になったのに、それじゃ、ダメじゃん。

 私の「白桃」という名前は、もちろん岡山の白桃に由来しておりますが、福島県、特に伊達地方も桃、柿をはじめとする果樹栽培が盛んです。伊達市の「花」もモモなんですね。毎年、千本桜を見に行く際に新幹線は福島駅で降ります。ホームに流れる古関裕而さん作曲の全国高校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」のメロディを鑑賞しながら、仙台行の在来線に乗り換えます。そして、天気が良ければ、県境近くの高台を走る車窓から眼下にピンクのライン(たぶん、モモでしょう) を眺めることができます。この流れって、ちょっとした楽しみなんです。
表組
 伊達市は2006年(平成18年)、伊達郡の伊達、梁川、保原、霊山、月舘の5町合併によって誕生した市なのですが、合併後の2010年国勢調査の人口は66,027人。モシ、タラ、レバ、の話になって恐縮ですが、大河原町と柴田町が合併して「千本桜市」になっていれば、同年の人口は62,871人。あんまり変わりません。それどころか、五年後の2015年国勢調査では「千本桜市」が上回ってくるのです。でも、「5町の合併で、7万人に届かないのか?」と馬鹿にしてはいけません。「平成の大合併」期に、(既存の市を含まない)合併によって新しく市となった132市の2010年国勢調査人口を、合併に関わった旧自治体数で割ると、48市が1万人に満たないのです。それに、表1のとおり、5つの町の町制年は全て戦前で、それなりに「町」としての歴史があるのです。つまり、「平成の大合併」期に誕生した市の中には、「ドコを以って市と言えるのか。」と言いたくなるところがありますが、伊達市は決してそんな市ではない、ということです。
 ところで、既に北海道に「伊達市」があるのに、なぜ「伊達市」となったのでしょうか。以下は、私がお世話になっている「都道府県市区町村」という掲示板の「市区町村変遷情報」にある記事からです。
 新市名公募上位10点:だて,あぶくま,阿武隈(あぶくま),北福島,東福島,桃花(とうか),桃里(とうり),新伊達,県北(けんぽく),伊達みらい
 新市名最終候補5点:だて,桃花,あぶくま,新伊達,伊達みらい(既存名称として公募対象外であった「伊達(だて)」を付帯意見として協議会に報告)
 新市名:「だて市」を選定→協議により漢字表記の「伊達市」に
 新市名:伊達市(だてし)
「伊達」を公募対象外としたのは、既に伊達市が存在していたこと以外に合併を構成する五つの旧町の中に「伊達町」があったからでしょうが、良く分からないのが、「だて」を選定していながら「伊達」になったことです。北海道の伊達市の市名由来は、仙台藩一門の亘理伊達家主従が、集団移住して開拓をした、ということからだそうですが、本家本元としては、どうしても「伊達」を名乗りたかったのでしょうね。
表組
 5つの旧町、それぞれに「町」としての歴史がある、と述べましたが、町村制施行と同時に「町」となったのが保原と梁川で、この2つの街は、白桃選「明治の名邑」に入っております。(因みに、福島県の「明治の名邑」は、若松、福島、白河、二本松、須賀川、郡山、三春、本宮、平、喜多方、梁川、保原、小名浜、飯坂、川俣、坂下、中村、桑折の18です。)保原と梁川は「町」としての歴史が古いだけではなく、人口においても他の旧)3町を引き離しています。と言っても、それは合併前までで、合併後は保原と梁川の人口差が広がっています。(表2参照)
表組
  阿武隈川に臨む伊達地方の簡単な経済地誌的説明として、果樹作以外にも、昭和初期までは養蚕が盛んに行われ、戦後まもなくニット産業(注1)が勃興した、という文言で良いと思いますが、その中核として繁栄した梁川と保原の人口は、明治初期から「昭和の大合併」期前までは真に拮抗していました。「昭和の大合併」によって、4村と合併した保原町に対し、より多くの6村と合併した(注2)梁川町の人口が上回るようになりましたが、1985年国勢調査でそれが逆転しました。表3のとおり、近年の求心力を見ても保原と梁川の差は歴然としています。
          
(注1)「ニットとメリヤスの違いは、機械編みがメリヤスで、手編みがニット」と書かれたものがありますが、どうやら、昔は「メリヤス」と言っていたものを近年は「ニット」と呼ぶような風潮になってきたようです。このあたり、門外漢なので自信ありません。
(注2)梁川町は6村と合併する前に、国見町の一部を編入(境界変更)しております。
表組
 合併にあたって、市庁舎をどこにするかモメタのかどうかは知りませんが、結局は実力?の保原に落ち着いたものと思われます。かと言って、梁川の存在も無視できなかったようで、合併後しばらくは、梁川だけには「分庁舎」が置かれていました。しかし、現在その名称は、旧)伊達、霊山、月舘と同様の「総合支所」に変更されています。

  このように、私の頭の中では「少なくとも伊達市の主役は保原」となりましたが、阿武隈急行の駅が、桑折に移った伊達郡役所を模したものになっていて、いかにも伊達の中心はこここだと誇らしげに見える保原よりも、戦国時代の城下町で、江戸時代も城址に陣屋が置かれたこともある梁川の街並みの方が、なんとなく風情もあり好きです。判官贔屓なんでしょうね。

  なお、参考として「平成の大合併」によって誕生した市において、合併前の人口が1位と2位の旧町(村)の人口が伊達市よりもずっと接近している(90%以上)の18市について、市役所がどこに置かれたのかを見たのが表4です。意外なことに、伊達市と同じように1位の旧町に置かれたのは3例だけで、人口2位の旧町に置かれたのが6例、残り9例は3位以下の旧町村に置かれています。(○印が市役所所在旧町)

伊達の脇役の世にも不思議な話
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  これまで私は、「街」という言葉を頻繁に使っておりますが、「町」との違いを明確に説明できていません。説明するのは結構むずかしいのですが、大雑把に言うと、「町」は、文字通り「市町村」という自治体種別の中の「町」のことを言い、「街」は、いわゆる「町場(まちば)」「市街地」を指しているつもりです。ですから、「市」にも「町」にも「街」があるのです。では、「街」と「それ以外」をどのように区別しているのか?、これを訊かれると山本リンダじゃないけれど、非常に困っちゃいます。少し苦しいのですが、少なくとも、「昭和の大合併期」より前に市制あるいは町制施行しているところの中心部は「街」と呼んでも差し支えないと考えています。

 「昭和の大合併」では複数の「街」が同じ自治体になるケースはそんなに多くは無かったのですが、「平成の大合併」ではそれが当たり前になりました。伊達市の場合は、保原(保原町)、梁川(梁川町)、掛田(霊山町)、月舘(月舘町)、長岡(伊達町)と五つの「街」が1つの自治体になったのです。そうなると誰も口には出しませんが、同じ「街」でも「主役」と「脇役」に分かれてくるのです。お断りしておきますが、私は「主役」と「脇役」を差別するつもりは全くありません。それに、「主役」だけではドラマは創れないのです。

 ある方(これを読まれている方なら誰でもご存知のとても有名な方です)が、こう言っています。「都市に感情はないけれど、そこに思いを寄せる人には感情があります。」とても含蓄のある言葉です。「街」を客観的に評価するのも良いでしょうが、感情を込めて語ることも許されるでしょう。私なんか、東京や大阪のような大都市には殆ど思いを寄せられません。「平成の大合併」以前の自治体人口で言えば、1万5千人以上から、せいぜい5万人未満の市や町の「街」、「街並み」が大好物なので、そんなところに寄せる思いが強いのです。そして、さらに言えば、保原のような主役級よりは、脇役陣に惹かれるのです。

 主役に匹敵するような脇役、梁川の街については既に言及しておりますので省略します。また、講釈師は見てきたような嘘を言っても許されますが、地理(学)を少しでも齧った者は、訪れてない月舘について語ることは許されておりません。では、掛田はどうでしょう。

 我がふるさと、三本松と同じ年(明治31年)に町となった掛田についても、千本桜さん運転の車で街中をすり抜けただけなので、それほど強い印象は残っていませんが、目抜き通り?の道が一直線ではなく、途中で微妙に折れているのです。戦国の世には掛田の街を一望できる茶臼山に懸田城があって、その関係でしょうか。昔、と言っても昭和46年までは、保原から電車が通じていて、それなりに賑わっていたのでしょうが、今は昭和のたたずまいを残す静かな田舎町といったところでしょうか。

 表2のとおり、1960年からの人口増加率を見ますと、旧保原町よりも高いのが旧伊達町で、合併後、人口が増えているのは旧伊達町だけです。これは、伊達市の中では福島市に最も近い場所にあるからでしょう。また、表3のとおり、合併前の昼間人口比率も、これまた旧保原町よりも高い。これはひょっとして、旧町外から聖光学院高等学校への通学者がかなりいることによるものかもしれません。ついでに言えば、旧伊達町の人口密度は当時の福島県で最も高かったようです。

 このような旧伊達町の「街」は長岡です。旧国道4号線(奥州街道)に連なる街並みは、やや雑然とはしていますが、少なくとも掛田よりは活気があります。長岡が「村」から「町」となったのは、伊達市の五つの「街」の中では一番遅く1940年ですが、そのときの町名は「長岡町」ではなくて、改称して「伊達町」となるのです。ここから、非常に不可思議というか、ここだけにしか見ることができない風変わりな町の歴史が始まるのです。年表にすると以下のようになります。
 1940年(S15)4月01日  伊達郡長岡村が町制/改称して伊達町となる
 1956年(S31)9月30日  伊達郡伏黒村が伊達町を編入
 1957年(S32)1月01日  伊達郡伏黒村が町制/改称して伊達町となる(注3)

 何が変だと言うと、
 (1)アララ、「町」から「村」に落っこっちゃった!!
 (2)ナンテコトダ 「町」が「村」に編入されるとは!!
 (1)の「町」→「村」については、明治期に新潟県や愛知県において数例ありますが、それは、「町」といくつかの「村」が合併し、「村」になったものです。当時は、「町村制」の時代、つまり、「町」と「村」は呼称が違うだけで本質的な違いはない、という建前が通用していた時代でしたから、「町」から「村」になっても致し方ないという風潮だったかもしれません。1947年「地方自治法」が出来てから、「町」から「村」になったのは、いったん合併をした後に「分立」し「村」に戻ったという事例を除くと、第一次「伊達町」だけです。

 (2)について、似たような事例は、ウミガメで有名な徳島県の日和佐町(現:美波町)にありました。それは、1956年9月30日、すなわち伏黒村が伊達町を編入したのと同じ日、日和佐町は前日まで「村」であった赤河内に編入されたのです。前日まで「村」であったということは、合併当日は「町」であったのだから、伏黒村/伊達町のケースと異なるのではないか、というツッコミもあろうかと思います。なるほど、総理府の告示順序の通りに読めば、赤河内村が町制施行、そして、赤河内町が日和佐町を編入、ということになるのですが、赤河内が「町」になるのは、日和佐を編入する前でも後でもあまり関係ない話なのです。その理由は、編入と町制施行が同日に行なわれたということもありますが、さらに、その日に赤河内町が日和佐町に改称しているからです。旧日和佐町から見れば、いったん赤河内に編入されたことにして、その日から新しい町がスタートした、ということになるのです。「日和佐町」という名前が継続されたわけですから、ある事典には「1956年9月30日、日和佐町が赤河内村を編入」ということになっています。

 いろいろゴチョゴチョ書きましたが、伏黒村/伊達町と赤河内/日和佐の共通点は、「町」が実質的には「村であるところに編入されたという点でありますが、大きな相違点は、日和佐が途切れることなく「町」であったのに対し、伊達の場合はまるまる3ヶ月間、「村」に戻ったということです。
          
(注3)1957年1月1日に伏黒村が伊達町になる際、いったん「伏黒町」となっています。


 というわけで、第一次「伊達町」、つまり、長岡が改称し出来た旧・旧「伊達町」は他に例を見ない数奇な運命をたどっているのですが、問題は何故このような選択をしなければならなかったのか、です。
 これについて、詳しく調べられた方がいらっしゃいます。その方とはある席(オフ会)で一緒になりお話もしたことはあるのですが、なにせお名前(もちろん本名)を知りません。よって、無断でのことにはなりますが、その方の投稿記事を要約させていただきます。

 〜〜「合併促進法」によって、福島県の合併計画では、伊達町の合併相手先は飯坂地区となっていましたが、伊達町側では「飯坂町は信夫郡に属し郡が違うのと、又経済的事情を異にして居り、且つ飯坂町は温泉地帯であるので人情風俗等諸般の事情が著しく相違しておる」から、住民の90%以上が伏黒村との合併を望んでいたようです。
 一方の伏黒村は保原地区からもラブコールを受けておりましたが、保原との合併も消極的でした。かと言って伊達町との合併について、はっきりとした意思表明をしたわけではありません。合併協議を有利に進めようと言う狙いがあったのでしょうか。
 そうこうしているうち、飯坂と保原、それぞれの地区が合併を行った結果、伊達町と伏黒村だけが取り残されてしまいました。結局、「合併促進法」の期限が迫ってくる中、人口は同じくらい(1955年国勢調査では伊達町:4,291人、伏黒村:4,136人)でも、経済的にも財政的にも上回っていた伊達町が譲歩に譲歩を重ね、「伏黒村への編入合併」「名称も伏黒村」「役場も伏黒村」ということになったのです。〜〜

 しかし、赤河内/日和佐のように、すぐ「伏黒町」とならなかったのか、どうしてまた、「伊達町」になったのか、このあたりは謎のままです。

伊達市ばかりが伊達じゃない
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表組  ♪「まつのき小唄」じゃないですが、伊達は伊達でも伊達市ではないところも忘れてはなりません。伊達市が出来る前に、伊達郡には9つの「町」があったのです。伊達市を構成することになる保原、梁川、霊山、月舘、伊達の5町以外に、桑折町、川俣町、国見町、飯野町と4つの「町」があったのですね。この4つの「町」にもそれぞれ、桑折、川俣、藤田、飯野と4つの「街」があったのです(表5参照)。実は、伊達郡にはもう一つ「街」があったのですが、それは後でお話しすることになると思います。
 この4つの「街」のうち、飯野には訪れてないのでお話しすることは出来ませんが、ひと言だけ。この飯野町は、2008年(平成20年)、伊達を裏切って?福島市にすがりついていきました。裏切った、というのは勿論冗談でして、福島市に編入されるのも自然のなりゆきであったのでしょう。
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 川俣についても訪れていないので、深く触れることはできませんが、NHK朝ドラ「エール」では、その昔は「大都会」だったように描かれています。事実、川俣は町村制施行と同時に「町」となり、絹織物産業の好景気によって複数の銀行が立地するなど繁栄していたようです。保原や梁川にとっても、同郡の川俣は一目置く存在であったのではないかと想像しています。「昭和の大合併」前の1950年国勢調査で川俣町の人口は1万人を超え、この時点でも保原、梁川を軽く上回っており、「昭和の大合併」では、安達郡の村をも含む7村と合併したことにより、2万7千人に届こうかという、名実ともに伊達郡人口最多の町になったのです。しかし、その後は表6のとおり、人口は急減、現在は往時の半分近くになっています。ただ、表7のとおり昼間人口比率が100を超えており、「神通力」は辛うじて残っているようです。

 国見町の「街」藤田についても少し立ち寄っただけなので詳しく語ることはできませんが、印象としては色彩感のない地味な街でした。奥州街道の宿場町ですが、あんまりその面影も残っていません。桑折との境にある半田山銀山で働く人も利用したようですが、推測するに、同じ町内の貝田宿より大きく、桑折宿よりは規模の小さい宿場だったのでしょう。国道4号線から緩やかな勾配を上がっていくと駅がある、こんな感じ、そう、あの有名な温泉地、熱海と似ています。駅の近くの「観月台公園」、これは、なかなか小洒落た公園でした。一番目についたのが、桑折との町境にある立派な藤田総合病院。なんでも、伊達市(当初は梁川町)、桑折町と1市2町で運営されている公立の病院のようですが、これが町内に存在するというのは、国見町民には有難いことではないかと想像します。なにせ、田舎で一番賑わって、「密」なるところは病院ですからね。

 外国の街では、どの道を進んでも行きつくところは同じ、ナントカ広場、と言うことが良くあります。桑折の街がまさにそれで、どういう訳か必ず旧伊達郡役所に出くわします。ここは桑折のランドマークになっています。「桑折」という名のいわれは、養蚕と関係あるのではと思っていたのですが、そうではなく、奈良・平安の昔に「郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)」が置かれたことによるものだったらしい。桑折では、「仙台藩伊達氏発祥の地は桑折」と主張しておりますから、そんな桑折にとって伊達郡役所が当初、保原に置かれたことは無念極まりないことだったのでしょう。1883年(明治16年)に誘致運動によって郡役所を持ってきた、いや、奪い取った?桑折にしてみれば、「伊達の主役は保原」と聞いたら、「へん、笑わせるな。」と言うかもしれません。ま、白桃の想像、というか妄想ですが。
表組
 さて、「郡」の話が出たところで、ちょっと脱線いたします。私は、郡部に生まれましたので、「郡」という言葉の響きにもなんとなく懐かしさ、一種の安堵感を覚えるのですが、白桃の持論は、「今どき、『郡』は無用の長物でしかない。」です。「郡」がその制度のもとに、県と町村との中間にある地方自治体として機能していたのは大正時代までですが、郡制の廃止後も、そのエリアになんとなく「まとまり」を付けると言うか、区画するためでしょうか、名称としては現在まで残っています。私も小さい頃は、はがきの宛先に香川県大川郡大内町三本松・・・と必ず郡名を入れておりましたし、中学生の頃には「郡大会」や「郡の〇〇コンテスト」に参加もしました。そう言えば、「大川郡中学生英語弁論大会」というのがありまして、私は英語の先生に「出れば間違いなく優勝するから。」とそそのかされ、中学代表として出場したのです。その英語の先生ですが、柔道部の顧問もやっており、私の1学年上で、後に世界チャンピョンになった藤猪省三(現在は省太)さんに、よく稽古をつけていた、いや、よく投げ飛ばされていました。出場者は確か私を含めて5人だったと思うのですが、3位にも入れず、その先生が運転する車での帰途、物凄く気まずい雰囲気だったのを思い出しました。それ以来、私は英語が嫌いになり、海外添乗をしても英語は滅多に口に出さなくなりました。幸いなことに、添乗先で一番多かったのが、「フランスの大河原」と呼ばれる?パリでして、フランス人は殆ど英語を話さない(私と違って、「話せない」のではなく、「話さない」のです)ので、そういう点ではラッキーでした。アレ、何の話でしたっけ? 白桃が郡を「無用の長物」とするのは、中学生のときのスピーチコンテスト以来、郡が嫌いになった訳ではありません。「平成の大合併」が行われた結果、今は「町」の数より「市」の数のほうが多いのです。ですから、伊具郡丸森町のような「1郡1町」や「1郡1村」が各地に見られるのです。それに、「都会人」の中には、郡にへんな関心を持つ方が居まして、「東かがわ市って何郡なの?」と、とんでもない質問を受けることもあります。白桃が「郡は形骸化しているどころか、無用の長物である。」といくら言っても、「いや、そうじゃない。」と仰る方は何人もいるかと思われます。新型コロナが無くなっても、郡は無くなりそうもありません。

 桑折に戻ります。伊達市と同じように桑折の「町の花」もモモですが、桑折町は、「献上桃の里」と名乗っているのです。私が注目しているのは、そういうことではなく、奥州街道と羽州街道とが分岐する要衝の地、桑折のDID(人口集中地区)なのです。驚くことなかれ、人口わずか1万2千余の桑折にDIDがあるのです。表8のとおり福島県北の街の中では一番小さなDIDですが、注目すべきは、DIDの小さいことではなく、自治体人口が少ないのにちゃんとDIDが存在している、そのことです。しかも、桑折のDIDは一度消滅して、2010年国勢調査で復活しているのです。表9のとおり、2015年国勢調査人口が1万5千人未満の自治体で、DIDを有するのは20しかありません。20のDIDの中でDID人口最少は桑折ですが、表10のとおり、DID人口が最少のDIDではありません。

 私には、「郡役所」とDIDに、桑折の「意地」を見るような気がします。

芭蕉が愚痴った飯坂温泉
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 松尾芭蕉は義経ファンだったらしく、義経の家来、佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの医王寺を訪れ、「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」という句を詠んでいます。その日は飯坂温泉(「奥の細道」では飯塚温泉となっている)に泊っています。飯坂温泉には芭蕉の銅像や碑があるので、てっきり、芭蕉♡飯坂温泉かと思いきや、とんでもないのです。泊った「宿がひどくてのう、土間にむしろを敷き、いろりのはたでゴロ寝をしたんじゃが、雨もりはするわ、ノミや蚊は刺しおるわで、一睡もできんかったと。おまけに持病の疝気まで起こってきての、あわれなありさまじゃったとよ。」以上は、みちのく観光出版発行の「芭蕉・奥の細道旅日記」からの引用ですが、芭蕉の時代はともかく、飯坂は押しも押されもせぬ東北を代表する温泉地です。

 千本桜さんのご案内で飯坂温泉を訪れましたが、お湯には浸かっておりません。白桃は、旅行会社在籍時はもちろん、転職後も地域の観光振興にちょっとだけ関わっていたこともあり、人並み以上に温泉地に行っている(注4)のですが、温泉でゆったり、という気分になったことは殆ど無いのです。バスガイドさんが、「昨夜は温泉に何回入りましたか?」とツアーのお客さんに訊いているとき、大抵のお客は2〜3回、多いひとは4〜5回、という中で、「添乗員の私は0回です。」とは恥ずかしくて言えません。でも、「花より団子」いや「お湯よりお酒」ですから仕方ありません。温泉に浸かっても15秒ぐらいで出てきます。こんな私ですから、どこの温泉が一番良かったと訊かれても答えようがありません。
          
(注4)人並み以上と言っても、行ったことのある温泉よりも行ったことがない温泉が多いことは間違いないでしょう。著名な温泉では、秋保、伊香保、有馬、黒川などは全く知らないです。


 いつもの悪いクセで脱線しましたが、「温泉の街」としての飯塚を見ていきましょう。 今は福島市となっている飯坂ですが、それまでは町村制施行時から信夫郡飯坂町、つまり「生まれながらの町」であったのです。信夫郡にはもう1つ、「生まれながらの町」があり、それが後の福島市です。つまり、町村制施行時、信夫郡において、飯坂は福島に次ぐ「都会」(注5)だったのです。また脱線して申し訳ありませんが、信夫と言えば、福島市街の北にあって千本桜さんの「サスペンス劇場」にも出てくる信夫山、ここは地形学的で言えばモナドノック(残丘)らしいのですが、そんなことより、私にとって「信夫山」とは両差し得意の信夫山。この昔の名力士、出身は福島県でも伊達郡保原町ですと。なら、信夫山ではなくて、「阿武隈川」が良かったかも。
          
(注5)明治19年「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」の現住人口は、「福島」が9,721人、「上飯坂村(飯坂)」が3,686人と、ともに第一表に記載されています。


 表8のとおり、飯坂にはDIDがあります。東北地方では、上山、赤湯にもDIDがありますが、温泉街がそっくりそのままDIDになっているというのは、飯坂だけでしょう。この「飯坂DID」は摺上川を挟んで広がっています。川の西側は元々の飯坂ですが、東側は湯野という「街」なんです。この湯野もその名のとおり温泉地でして、今でこそ「飯坂温泉」とひっくるめられていますが、昔、特に地元では飯坂と区別して「湯野温泉」と呼ばれていたようです。ところで、湯野は信夫郡ではなく伊達郡だったのです。そうなんです。先に述べた、伊達郡のもう一つの「街」というのが湯野のことです。湯野は明治19年「戸口表」では第一表に現住人口2,645人と記載されておりますから、「名邑」とはいかないまでも、それに近い集落を形成していたのでしょう。町村制施行直後の人口調査記録では、後に東湯野村として分立するエリアを含んでいたこもありますが、湯野村は飯坂町の人口を上回っています。1940年(昭和15年)に町制施行で湯野町となりますが、1955年(昭和30年)に飯坂町等との「越郡合併」によって新「飯坂町」となり、「湯野町」は消滅するのです。湯野町の消滅を哀れんで出来た曲が♪湯の町エレジー……ってのは冗談ですが、この合併、見かけは対等合併ですが、新しい町名も飯坂で、所属郡も信夫郡になったのですから、事実上は、飯坂が湯野町等を編入したと言えるのではないでしょうか。もっとも、飯坂と湯野は街も連担しており、深い関係にあったと思われますので、信夫でも伊達でも、そのことはあまり気にならなかったかもしれません。そう言えば、福島盆地のことを、信夫の「信」と伊達の「達」をとって「信達平野」とも言われるように「信」と「達」の郡境はあってないようなものだったのかもしれません。

 「温泉の街」としての飯坂を見てみると言いながら話が逸れるばかりでごめんなさい。我が国には、「温泉」がその地域の経済にかなりの影響力をもっている市町村が見受けられます。代表的なのが草津町、熱海市や別府市ですが、「平成の合併」前の自治体名で言えば、水上町、下呂町、城崎町なんかがこの仲間に入るでしょう。白桃は飯坂以外で、このようなところを77箇所ピックアップし、国勢調査における人口推移を調べてみました。その結果ですが、高度経済成長が完全に終焉したと思われる1975年までに人口ピークを迎えたところが58箇所もありました。特に1965年にピークを迎えたのが、(旧)水上町、箱根町、熱海市、(旧)山中町、(旧)下呂町、(旧)城崎町と言った全国的にも名の知れた温泉地です。1980年以降にピークを迎えた自治体が19ということになるのですが、花巻市のように人口推移の主因は「温泉」ではないと推測されるところや、三重県の(旧)長島町のような「温泉地」というよりは「温泉施設もある大型レジャーランド」がある自治体を除くと、実際は数えるぐらいしかありません。湯河原、伊豆長岡、伊東、石和など首都圏から近い温泉地は頑張った方ですが、これらも既に減少を示しております。これらのことから、国民のライフスタイルの変化に対応できた温泉地が少なかったと言えるでしょう。肝心の飯坂ですが、1964年という中途半端な時期に福島市に編入されたこともあって、自治体人口の推移が見つかりませんでした。そこで、DID人口に着目したところ、表8のとおり、ピークを迎えたのが1975年でした。やはり温泉地は苦しいですね。今般の新型コロナが、これ以上追い打ちをかけないことを祈るばかりです。

孤高の城下町 相馬の中村
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表組  相馬市の「街」・中村の相馬中村城の領主は、徳川幕藩体制において一貫して相馬氏でした。全国に数ある城下町の中でも、江戸時代一貫して同一大名であったというところは案外少なく、そういう意味でも、中村と相馬氏は切っても切れない関係になっています。ということで、相馬氏について少し見てみましょう。相馬氏はもともと、下総(千葉県北部〜茨城県南部)に領地をもっていた一族ですが、鎌倉時代に内紛が起こり、氏の一部が陸奥国行方地方小高に移り住んだ、これが陸奥相馬氏の始まりです。余談ですが、福島県と茨城県の両方にはかつて「相馬」「行方」と同じ名前の郡が存在していました。

 相馬氏が本拠を小高から中村に移したのは江戸時代初期で、以来、中村は相馬氏6万石の城下町として繁栄してきました。と、ここまで教科書通りのことを書いてきましたが、私の感覚では、6万石の城下町にしては、人口が心持ち少ない気がするのです。表11は、幕末(文久3年:1863年)に5万石〜7万石の大名が治める40の城下町とその明治19年「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」の現住人口を掲載したものです。さすがに全てが「第一表」に記載されていますが、中村の人口順位は37位なんですね。よく、「石高と城下町の人口規模は関連性がある。」と言われますが、その際の石高とは「内高(実高)」を指しているのかもしれません。表の石高は「表高」ですから、正確性に欠けるかもしれませんが、それにしても物足りないのです。「ひょっとして、そんなに栄えてたんじゃないかも」という、中村に対する失礼な思いを抱きながら中村城址を歩いていると、どこからか三橋美智也の♪「古城」が流れて・・・これは私の気のせいでした。

 「孤高の城下町」、これはちょっと恰好良すぎますが、中村はそれなりにプライドを持った街ではないでしょうか。表8のとおりDID人口はスーパータウン大河原に、いや、保原にも及びませんが、確かに大河原や保原には無い都会的雰囲気を中村には感じます。城址の近くに相馬高等学校があり、その入口に「福島県立相馬高等学校」と並び「福島県立相馬中學校」と書かれた門柱が立っていました。相馬中学の前身は「福島県第四中学校」ですが、19世紀に福島県に出来た旧制中学は、郡山、平、福島、若松(注6)と、この中村にあっただけなのです。このあたりからも、当時の福島県における中村の「地位」が高かったのではないかと推察されますが、それに相応する拠点性があったかどうか、となると?なのです。
          
(注6)若松の「会津中学校」は当初私立の学校でした。


 中村について、あまり高くない評価をしているような書きぶりをしておりますが、そうでもないのです。中村の「街」というか相馬市は、とにかく地味なんです。「相馬市ってどこにあるか知ってる?」と、身近にいる「舞鶴は神奈川県」と発言した地理に疎い女性に訊いても、「福島県でしょ。」と、すぐ答えが返ってくるのです。このように、「相馬」という名は全国に浸透しているのですが、どんな市かとなると知っている人は殆どいない。もっと自己PRをすればよいと思うのですが、そうもいかないみたいです。有名な「相馬野馬追」だって、中村でやるのは、「総大将出陣式」だけ。 あとは、原町や小高の南相馬市でやる。どうも、相馬市は「名前負け」しているというか、「相馬」という名に遠慮しすぎているのではないでしょうか。「相馬」の主役は相馬市ではなく、南相馬市であることを自ら認めているのなら、南相馬市に「相馬市」を名乗らせ、自分は「北相馬市」とでも名乗る、おっと、これは暴走してしまいました。本当のことを言うと、白桃、なんとなく遠慮がちで奥ゆかしい?相馬市は好きなんですよ。

 ♪好きなんだけど離れてるさ〜、そうなんです。相馬市は離れていたのです。「平成の大合併」によって伊達市が誕生し原町市が拡張して南相馬市になった現在は、相馬市は両市と接するようになりましたが、相馬市が誕生してから約50年の間、まわりに市は無かったのです。加えて、相馬市自身、「平成の大合併」を行わなかったので、相馬市に対して私が「ひとりぼっちで淋しい、孤独な市」というイメージを膨らませてしまったのです。

表組  さて、そろそろ中村町から相馬市への歩みと相馬市の現状について見ていきましょう。中村町は1929年(昭和4年)に松ヶ江村を編入しております。この松ヶ江村と言うのが、景勝地・松川浦のあるところです。中村の街と松川浦は少し離れていますが、この時期に合併したということは特に意味があったのかもしれません。そして、1954年3月31日、相馬郡7村と合併して相馬市となるのですが、面白いことに、同じくこの日に市制施行した市の中に高知県の中村市(現:四万十市)があるのです。詳しいことは知りませんが、「中村市」という名称を高知に譲ったのではなく、歴史的に見ても「中村市」より「相馬市」が自然の流れだったのでしょう。

 市制施行後はいっさいの廃置分合を行っていない相馬市の人口推移を表12に示します。ここは比較のため、同じ城下町で雰囲気的にも似かよっていて、「平成の大合併」を行っていないという点でも共通する白石と、宿敵?原町にも登場してもらいましょう。相馬市の人口推移もまさに「地味」です。でも、この地味さ加減は、褒められても良いでしょう。1960年〜2015年の増加率は原町を見てはいけません。白石と比べてください。2005年〜2015年の推移は、原町と比較してください。2010年から2015年の5年間に限れば、原町が大きく減少しているのに対し、相馬市は700人以上増加させているのです。もっともこれは、東日本大震災によって被災者の多かった原町と、南相馬市等からの避難者を受け入れた相馬市の違い、なんでしょうが、相馬市が市制施行後、人口を激減させず健闘していることは間違いないのです。

表組  人口推移はまあまあの相馬市ですが、気になるのは相馬市の求心力です。表13のとおり、2016年の「1人当たり年間小売商品販売額」は南相馬市とどっこいどっこいなんですが、2015年の昼間人口比率を見ますと、南相馬が100を超えているのに対し、相馬は100を切っているのです。白桃は、通勤通学者の数をもとに独自の「都市圏」を設定しております。それに従うと、相馬市はその「狭域都市圏」に隣接する新地町を含んでおりますが、相馬市自体が南相馬市の「広域都市圏」に繰り込まれているのです(注7)。「街」としての歴史においては、原町よりは断然中村なのですが。
          
(注7)大雑把に言うと、A市の自宅以外の自市に通勤通学する者の数をaとし、A市からB市に通勤通学する者の数をbとしたとき、
b/aが0.5以上のとき、A市はB市の「狭域都市圏」に、
b/aが0.1以上のとき、A市はB市の「広域都市圏」に
あるとしています。


 福島県北の「旅」の終わりは松川浦です。周辺には旅館、食事処と家屋が集まっていますが、「街」を形成するまでには至っておりません。いくら「街好き」の私でも、この風光明媚な潟湖(ラグーン)にまで「街」を求めることはいたしません。訪れたときは、景観をほんの少し取り戻していたようですが、初めて見る白桃にとっては、震災前のさぞ美しかったであろうその姿を想像するしかありません。

 無粋な白桃は、「松川」という川がないのに何故「松川浦」なのか、この拙文を書いている今日まで不思議に思っていたのです。そこで、本日、相馬市役所市史編纂室に問い合わせてみました。すると、「万葉集に松が生繁っている『松が浦』を詠んだ歌(東歌)があり、その場所がここだと比定され、美しい『松』、ラグーンに流れ込む『川』から、『松が浦』がいつしか『松川浦』になった。」と親切に教えて頂きました。この松が浦=松川浦 説を疑問視する方もいるようですが、相馬に住む人たちは、どちらでも良い、というか、名前の謂れなんかあんまり気にしてないようです。私だって、なぜ、「三本松」と呼ばれるようになったか、本当のことを知りませんし、あまり知ろうとも思いませんから。

 最初から最後まで、しまりのない文章になりましたが、千本桜さんにご案内いただいて巡った福島県北の旅はここまで。次回はいよいよ宮城県になりますか・・・??

執筆:白桃 酔夢  編集:千本桜 歌麿



白桃酔夢様
 原稿をお寄せいただきましてありがとうございました。地誌の楽しみを堪能させていただきました。ウィキペディアによると「地誌とは、地理上の特定地域を様々な諸要素(自然・地形・気候・人口・交通・産業・歴史・文化など)を加味してその地域性を論じた書籍。郷土誌」とあります。今回の「福島県北(伊達・飯坂・相馬)」は地誌そのものでしょう。
 伊達地方では現在、相馬福島道路(東北中央道の一部)の開通とイオンモール建設が大きな話題となっています。白桃さんを相馬から福島へお送りしたとき、相馬福島道路は霊山IC~桑折JCTが未開通でしたが、2020年度中に全線開通する予定です。相馬を発した道路は、伊達桑折ICで国道4号と連絡し、桑折JCTで東北自動車道にドッキングします。このように書くと桑折町に明るい未来がありそうですが、そうではなさそうです。桑折JCTからは車の乗り入れができず、伊達桑折ICとは言うものの、位置するのは伊達市(旧伊達町)内です。桑折町はちょっと不運で気の毒な感じがします。
 この伊達桑折ICのすぐそば、伊達市堂ノ内地区に建設予定なのが巨大イオンモールです。これが実現すると福島県北の商圏が大きく変化することでしょう。そして仙南、特に白石市の購買力が伊達市に流出するのは必至と思われます。北の名取と南の伊達。この2つの巨大イオンモールに挟まれて、スーパータウン大河原も色あせてしまうのかな……。こんなことを考えると少々辛くなりますから、伊達市に建設される巨大イオンモールが大河原商圏に及ばす影響の考察は「あしたのこころだ〜」にしておこう。 千本桜歌麿
地理と地域白桃さんの地理雑学講座>南奥羽の小さくとも光る街々 2