地理と地域旅行記
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制作:千本桜 歌麿
旅行:1974年2月
文:2024年3月10日
公開:2024年3月10日
E-mail:tiritotiiki@gmail.com

 1974年(昭和49年)、初の海外旅行を決行。行く先はフランクフルトとパリ。当時としては大々的な旅だったが、記憶が薄れてほとんど覚えていない。いま、断片的に残る記憶をかき集め、ホームページにまとめておこうと思う。これも終活の1つかな。
フランクフルト編
 記録よりも記憶が大事と思っていたから、写真を撮ることも少なかったし、撮った写真もどこに保管したか忘れてしまい見失っていた。ところが、ふとしたことで旅行時の写真を発見。おまけに、ちょっとしたメモまで出てきた。これを基に、フランクフルトを思い出しながら旅行記を書いてみる。

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アンカレッジ空港
 経済力もなければ語学力もない。あるのは憧れと好奇心だけ。まだ見ぬ世界への憧れと、抑えきれない好奇心をボストンバッグに詰め込んで、KT君と一緒にフランクフルト&パリの団体旅行に参加したのは1974年2月のことだった。
 羽田を飛び立った日航機はアンカレッジ空港に着陸。ここで燃料を補給する間、私たちはターミナル内で過ごした。その時の写真が、これである。でも、写真を見てもその時の状況を思い出せない。それなのに、機内食のステーキがやけに硬かったことは覚えている。アンカレッジで給油した日航機はコペンハーゲンへ。コペンハーゲンでルフトハンザ機に乗り換えてフランクフルトへ向かったと記憶しているが定かではない。
 初めての海外旅行なのに、さほど不安を感じなかった。しかし飛行機は怖い。金属の塊が空を飛ぶなんて理解できない。そんな気持ちを和らげるために、飛行中はイヤホンで音楽を聴いていた。発売されたばかりの、ちあきなおみ♪「夜間飛行」が流れていたな。そんな時代のことだった。

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フランクフルトの地図
 ルフトハンザ機はフランクフルト空港に到着。添乗員に誘導され、バスで市内観光。メモには、空港→レーマー広場→ゲーテハウス→昼食→オペラ座→植物園→中央駅→空港の順で移動したと書いてあるが、記憶はぼやけてセピア色。
 記憶はぼやけても、地図を描くと忘れかけていた風景を思い出すことがある。ゲーテハウスの記憶が蘇ってきたぞ。でも、オペラ座や植物園のことはやっぱり思い出せない。50年の歳月が記憶を風化させたのか。

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マイン川と旧市街
 右の写真は、マイン川のウンターマイン橋で撮影した。左から順に、聖レオンハルト教会、ニコライ教会、大聖堂、鉄の橋が写っている。ここは旧市街の歴史地区。観光客なら必ず訪れる場所だが、一番人気のレーマー広場は建物の陰に隠れて見えない。
 現在のフランクフルトは高層ビルが建ち並ぶ近代都市だ。旧市街に隣接するノイエマインツァー通りは高層ビルが林立し、銀行街に変貌しているという。しかし、この旧市街の歴史地区は昔のまま保存されているそうだ。

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レーマー広場とニコライ教会
 右の写真は、レーマー広場に面したニコライ教会の前で撮影した。レーマー広場はフランクフルトで一番の人気スポットだから、観光客がたくさんいたと思うが、あまり覚えていない。ニコライ教会にしても、「そういえば見覚えがあるな」といった程度の記憶しかない。
 フランクフルトは第二次世界大戦で街の90%が破壊された。当時の航空写真を見ると、マイン川に架かる橋は崩れ落ち、街は残骸と化している。しかし、フランクフルトは戦後復興して蘇る。現在、フランクフルト市は人口76万。人口は仙台市より少ないのに知名度は世界的。
 ロンドン、パリを制して欧州中央銀行の本部が置かれたフランクフルト。国際便や国内便が多数発着するハブ空港を有し、世界中の人が行き交うフランクフルト。さらに、フランクフルトソーセージをもって日本人の食生活にまで溶け込んだフランクフルト。コンパクトだが活力のある都市だ。

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市庁舎付近
 レーマー広場の市庁舎は何度か拡張され、19世紀後期には道路を挟んでもう一棟の市庁舎が建設された。2つの建物は「ため息橋」という名の橋で結ばれている。写真には、その市庁舎と街並みが写っている。
 1971年発行の観光案内書は、フランクフルトのことを「歴史的に重要な建物は復元されているが、街並みはアメリカナイズされてしまった」と述べている。しかし、アメリカ風とドイツ風の区別がつかない私には、どの街並みもヨーロッパ風に見えた。

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大聖堂
 レーマー広場から聖バルトロメウス大聖堂へ。大聖堂の尖塔は高さが95mもあり、旅行当時はフランクフルトで最も目立つ建物だった。写真を見ると、尖塔は補修工事中のように見えるが、実際に工事していたかは覚えていない。とにかく、大聖堂の記憶はかなり曖昧である。
 あの頃は、ライン川流域の都市間競争に関心があった。フランクフルト、ケルン、デュッセルドルフ、エッセン、ドルトムントを大きい順に並べるとどうなるか。でも、他の人にはフランクフルトよりケルンが大きか小さかはどうでもいいことで、話に乗ってくれる人は少ない。
 大聖堂の次はゲーテハウスを見学。ゲーテハウスは文豪ゲーテの生まれた家。戦災で破壊されたが、レンガの欠片などを1つ1つ拾い集めて復元したという。入館したのは覚えているが、写真が見当たらない。当時は写真を撮ることに関心がなかったので、撮影するのを忘れたようだ。

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カタリーナ教会
 大聖堂やゲーテハウスを見学した後は、フランクフルトの中心街ハウプトヴァッヘ広場へ行った。写真は広場に隣接するカタリーナ教会の前で撮影したものである。メモには、「ここでKT君が迷子になった」と書いてあるが、当の本人はそんなことは覚えていないという。
 昼食は広場付近のレストラン。すべて旅行会社まかせだから、店の名前も食べたものも覚えていない。あの時は、早く食事を終えてカイザー通りを歩きたかった。
 わずかの自由時間を利用し、一人でカイザー通りへ向かった。カイザー通りはフランクフルトのメインストリート。ここを歩けばフランクフルトの都市規模が分かるはず。札幌、仙台、広島、福岡と同規模の都市を想定して歩いたが、街並みの雰囲気が違いすぎて日本の都市とは比較できない。ここが商店街なのか、それともビジネス街なのか、それさえ判別がつかないまま街歩きは空振りに終わった。

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オペラ座
 昼食後はオペラ座へ行った。写真があるので行ったことは間違いないが、何も思い出せない。ウィーン、パリ、ミラノのオペラ座は有名だが、写真を見るとフランクフルトのオペラ座も立派な建物だ。それなのに記憶がないのはどうしてだろう。
 メモには、オペラ座の次に植物園へ行ったと書いてあるが、これも思い出せない。だぶん、相当疲れていたのだろう。この日、フランクフルトからパリに向かったが、移動手段を思い出せない。記憶は真っ白である。

パリ編
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 なくしたものと諦めていた写真が見つかった。おまけに、パリの手描き地図まで出てきた。バスで団体行動したルートは描かれていないが、自力で歩いたルートが赤線で描かれている。こんな地図を描き残していたなんて感激だ。それにしても、ずいぶんグルグル歩き回ったものだ。若いって素晴らしい!

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シュフランホテル
 パリ滞在1日目。フランクフルトを出てパリに着いたのは、たぶん夕方。パリ滞在中は、エッフェル塔のすぐ南に位置するシュフランホテルに連泊した。パリも日々変化しているから、今でもそのホテルが存在するかどうかは不明である。
 ホテルの規模や景観は忘れてしまったが、1つ覚えていることがある。日本では、テーブルに散らかったパンくずは布巾で拭き取るだろうに、ホテルのウェイトレスは、床に払い落としたのである。文化の違いだな。

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ルーヴル美術館
 パリ滞在2日目。この日は、同じ団体ツアーの参加者たちとバスに乗り、パリ市内の主要スポットを一巡した。車窓からの眺めなので、どこをどのように回ったか忘れてしまったが、下車してルーヴル美術館に入場したことは覚えている。
 あの時は、仮想の世界だったパリの風景が現実のものになり、気持ちが高鳴った。エッフェル塔にセーヌ川。そして、シャンゼリゼ、ノートルダム、モンマルトル。名前を聞くだけでワクワクしてきた。
 それは、修学旅行で東京見物したときの感覚に似ている。次々と現れる東京タワーや日比谷公園、皇居二重橋、銀座、上野、浅草などに心をときめかせたものだ。
 はっきり言えば、都会見物に田舎から出てきた「おのぼりさん」だ。でも「おのぼりさん」になることは田舎者の特権であり喜びでもある。東京の人は、東京を見ても胸はずむ喜びを感じないだろう。

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ミロのヴィーナス
 セーヌ川沿いに建つルーヴル美術館は、建物自体が芸術品だ。元々は城塞として建てられ、幾度も改築した後に宮殿となり、フランス王家が利用していた。ルーヴル美術館として正式に開館したのは1793年である。
 ルーヴル美術館で最初に目にした大物はミロのヴィーナスだった。像の高さは203cmだが、台の上に置かれているので、もっと大きく見える。保護柵がなく、すぐそばに近寄って観ることができたが、無防備さには驚いた。貴重な芸術品なのに、こんなことでいいのだろうか。
 その時の写真が、これだ。現在は柵が設置されて間近には近寄れないが、あの頃のヴィーナス像は観光客の手が届く場所に置かれていた。ヴィーナス像を見上げているのは、同じ団体ツアーに参加した日本人である。たまたま一緒になっただけで交流はなかったが、私とKT君以外の参加者はお金持ちに見えた。和服姿のご婦人もいて、時代が感じられる。

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モナリザ
 ルーヴル美術館の数ある展示品の中で、最も人気が高いのはモナリザだろう。学校でも教えられ、誰でも知っている名画の中の名画だ。世界の宝物だから、さぞ物々しい警戒のもとで展示してあると思っていたが、そうではなかった。
 ことさらに特別扱いするでもなく、混雑もしていない。他の作品と同列に展示してあり、近くでゆっくり鑑賞できた。ミロのヴィーナスでも感じたが、こんなさりげない展示でいいのかなと思った。でも、今は違うらしい。モナリザの展示室が設けられ、人だかりができているそうだ。
 私がルーヴル美術館を訪れた2ヶ月後に、東京国立博物館でモナリザ展が開かれた。モナリザが東京にきたのである。あの時は、ニュースで大きな話題となった。観覧者が行列をつくり、4月20日から6月10日までの開催中に150万人が押し寄せたという。確か、鑑賞するのに入場制限が設けられた記憶がある。

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カナの婚礼
 ヴェロネーゼ作「カナの婚礼」の前で、KT君に写真を撮ってもらったことはよく覚えている。カナの婚礼は、ルーヴル美術館の絵画コレクションの中で最も大きな展示品だ。ダヴィッド作「ナポレオン一世の戴冠式」が大きいのは知っていたが、それよりもっと大きいのである。
 縦およそ6.7m、横は9.9mだから面積は約66平方メートル、つまり20坪の大作である。モナリザは縦77cm、横53cmだから4平方メートル。カナの婚礼はモナリザの165倍も大きく、そのでかさに圧倒された。あの時は空いていたので、他の観客に遠慮することなく椅子に腰掛けて撮影してもらえたが、今でもこんな悠長なことができるのだろうか。
 ルーヴル美術館には他にも、ラファエロ、ルーベンス、ベラスケス、レンブラント、ドラクロワなど著名な画家の作品が多数展示してあったが、写真を撮っていない。思えば惜しいことをしたものだ。

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三越とオペラ座
 団体ツアーのバスは三越にも立ち寄った。パリ三越は1971年に開店し、2010年に閉店している。小さな店だったが、心もとないパリで三越を見つけ、心強さと安心感を覚えた日本人も多いだろう。背後のゴージャスな建物はオペラ座である。
 メモには、この辺りで団体行動を解散し、私とKT君はオペラ座からマドレーヌ寺院、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りを歩いてエトワール凱旋門まで行き、道に迷ってタクシーでホテルに帰ったと書いてある。

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コンコルド広場
 オペラ座からヴァンドーム広場やマドレーヌ寺院を通ってコンコルド広場へ。コンコルド広場はパリの中心。石畳を敷いた大きな広場である。広場の東にはチュイルリー公園とルーヴル美術館があり、西にはシャンゼリゼ通りと凱旋門が見えた。
 その日の夜は旅行会社の企画でキャバレー「リド」へ行った。シャンゼリゼ通りに面したリドでディナー付きのショーを観る。贅沢な体験をさせてもらったが、あまり覚えていない。そのリドも2022年に閉業したそうだ。

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シャンドマルスとエッフェル塔
 パリ滞在3日目。この日はKT君と二人でパリ歩き。ホテル→エッフェル塔→シャンドマルス公園→アンヴァリット→リュクサンブール公園→パンテオン→ノートルダム寺院→ルーヴル宮→オペラ座の順で歩いた。
 写真はシャンドマルス公園で撮影したエッフェル塔である。ここは超有名な観光スポット。フランス国外からの観光客も多くて、誰がどの国の人か分からない。私はときどき中国人かと聞かれた。日本人かと聞いてくるのはだいたい日本人である。

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アンヴァリッド
 エッフェル塔からシャンドマルス公園を通り抜けてアンヴァリッドへ。アンヴァリッドにはナポレオンの墓があるが、実際に見たかどうか思い出せない。ただ、ナポレオンの墓の上に建つドーム教会の黄金のドームは印象に残っている。
 写真は、アンヴァリッドの門のそばで撮った。展示物の大砲が写っているのでアンヴァリッドに間違いないが、肝心の黄金のドームが写っていない。写真に写っている大きな建物は、一般のアパートと推察する。

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リュクサンブール公園
 アンヴァリッドからロダン美術館の脇を歩いてリュクサンブール公園へ。リュクサンブール公園はパリで4番目に大きな公園で、広さは日比谷公園の1.6倍。正面の建物はリュクサンブール宮殿で、現在もフランス上院の議事堂として使用されている。
 春には花や木々の緑で彩られるパリだが、季節はまだ冬。花も緑もなくて色が感じられない。パリってどんな色かと聞かれたら、白に近い茶色かな。シーズンオフで安く旅行ができたから文句は言うまい。

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カルチェラタン
 リュクサンブール公園からカルチェラタン地区のパンテオンに向かった。カルチェラタンは学生の街で、ソルボンヌ大学があることで知られている。パリ旅行から5年後に、布施明♪「カルチェラタンの雪」が発売されたが、あまり売れなかったようだ。
 パンテオンはフランスの偉人を祀った霊廟で観光客も多い。メモには「ミラボー、ヴォルテール、ルソー、ゾラの墓」と書いてある。ギリシャ建築とゴシック建築を取り入れた建造物は美しく、自分好みの建物だったが写真を撮り忘れている。
 パンテオンの写真はないが、近くの街角で撮った写真が出てきた。パンテオンからノートルダム寺院へ向かった時に通った街角だ。こんな分かりにくそうな道なのに、よくもノートルダム寺院まで辿りつけたものだと、我ながら感心する。たぶん、あちこち迷いながらの珍道中だったと思うが、KT君も文句を言わずに、よく一緒に歩いてくれたと感謝している。

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ノートルダム寺院正面
 パンテオンからカルチェラタンを歩いてシテ島へ。シテ島はセーヌ川の中洲で、大阪の中之島のようなものだ。面積は博多の中洲とほぼ同じ。このシテ島にノートルダム寺院がある。ノートルダムの名は、ヴィクトルユーゴーの小説「ノートルダムのせむし男」で世界中に知れ渡っている。
 パリ建築史年表には、ノートルダム寺院は1163年に着工し、1345年に竣工したと書いてある。日本だと平安時代に着工し、室町時代に竣工したことになる。パリでは古株の建造物で、重厚かつ荘厳なゴシック建築。写真中央の大きな丸いステンドグラスは、有名なバラ窓である。
 この教会は以前、ノートルダム寺院と表記されていたが、近年はノートルダム大聖堂と表記されることが多いようだ。「寺院」は仏教、「聖堂」はキリスト教のイメージがあるから、ノートルダムには「大聖堂」を付すのがふさわしい。でも、ここはやはり昔馴染みの「寺院」で通したい。

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ノートルダム寺院背面
 写真は寺院の裏側、ジャン23世広場で撮影したノートルダムの背面写真である。ノートルダム寺院は、見る角度によって雰囲気が変化する不思議な建物だ。正面からの眺めとは異なり、柔らかで優美な感じがする。こんな裏側にまで足を運んでいたなんて、すっかり忘れていた。
 しかし2019年4月、この美しいノートルダム寺院で大規模火災が発生。写真中央にそびえる尖頭が崩れ落ちる映像が世界中に流れた。いまは見学できないが再建工事は進んでおり、2024年末には一般公開が再開される予定だという。
 ノートルダム寺院を後にしてサンルイ島へ、さらにマレ地区へと足を運んだ。マレ地区は歴史の古い街。ここでサンポールサンルイ教会や市庁舎を見ているはずだが記憶は消失。ルーブル美術館付近のセーヌ河畔を歩いてオペラ通りへ足をのばしたが、これも記憶が曖昧。でも、サントノーレ通りで酔っ払ったことは覚えている。

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オペラ通りとサントノーレ通り
 ノートルダム寺院からオペラ通りへ。オペラ通りには三越、東京銀行、日本料理店などがあり、日本人なら一息つきたくなる街だ。ここで、酒好きのKT君に付き合って、スナック「かあにばる」に入店。下戸なのにビールを飲んでしまった。なんだか怪しい予感。高級洋装店が並ぶサントノーレ通りで買い物中に、酔いが回って吐き気をもよおし、店内で横になってしまったのだ。店主らしきオジさんが心配して介抱してくれるが言葉が通じない。私は「酔っ払っただけだから心配しないで」と答えたが、通じるはずもない。苦い失敗談である。

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ヴェルサイユ宮殿
 パリ滞在4日目。この日は、旅行会社の企画でヴェルサイユ宮殿を観光した。ヴェルサイユ宮殿はパリの中心街から20kmほど離れているが、パリにきたなら外せない観光スポットだ。コロナ禍前の2017年統計によると、フランスの観光スポット入場者数ビッグ4は、ディズニーランドパリ、ルーヴル美術館、ヴェルサイユ宮殿、エッフェル塔である。
 写真はヴェルサイユ宮殿の入場口を写している。50年前の写真だからセピア色に変色し、閑散としているように見えるが、実際は大勢の人で賑わっていたはずである。私たちはこの扉から宮殿へ入って行った。
 宮殿には有名な鏡の回廊をはじめ、王室礼拝堂、王の寝室、王妃の寝室など、ゴージャスで写真映えのする部屋が目白押し。とにかく豪華絢爛、派手派手なのだ。それなのに、撮影することに関心がなく、宮殿内の写真は1枚も撮っていない。思えば残念なことをしたものだ。

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ルイ14世騎馬像
 写真はヴェルサイユ宮殿前の広場で撮ったルイ14世の騎馬像。どこか仙台城址の伊達政宗騎馬像に似ている。政宗は1567年生まれ、ルイ14世は1638年生まれ。つまりルイ14世は、日本なら江戸時代の人である。
 ルイ14世の時代、フランスは人口約2000万でヨーロッパ随一の国力を誇っていた。強力な軍事力で侵略戦争を続け、領土を拡張し、権力を誇示するかのごとく絵画、彫刻、建築の贅を尽くして豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿を造り上げた。しかし、ルイ14世の晩年には、莫大な戦費調達と放漫財政で、フランスは深刻な財政難に陥ったと言われている。
 ルイ14世は1682年、王宮をルーヴル宮殿からヴェルサイユ宮殿へ移転し、貴族、官僚、召使いなど4,000人を強制移住させた。これによりヴェルサイユは政治の中心地になり、フランスの実質的な首都となったが、公式首都はパリ、公式王宮もルーヴル宮殿のままだった。

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ヴェルサイユ宮殿の庭園
 右の写真はKT君との数少ないツーショット写真で、ヴェルサイユ宮殿の庭園で撮影した。中央の彫像はピラミッドの泉水という噴水で、庭園にはこのような彫像や噴水がいくつもあったが、覚えているのはラトナの泉水とアポロンの泉水だけかな。
 ヴェルサイユ宮殿の庭園は、フランス式庭園の最高傑作といわれている。庭園路は直線的で左右対称にのび、花壇も左右対称に配置され、幾何学模様を描いて人工美を見せつける。これは、自然のものを取り入れ、曲線を描いて左右非対称に造形される日本庭園とは大違いである。
 ガイドから聞いた話だが、ヴェルサイユ宮殿には昔、トイレがなく、所かまわず排泄していたそうだ。舞踏会に参加する人は携帯用便器を持参し、便器にたまった汚物は召使いが庭に捨てていた。便器のない人は廊下や部屋の隅、庭の茂みで用を足したので、庭園も糞尿であふれ、すごい臭いが漂っていたらしい。

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大運河
 写真はヴェルサイユ宮殿の「王の散歩道」で撮ったものである。王の散歩道はヴェルサイユ庭園の中央を東西にのびる太い通路で、観光客も多くいたと思うが、なぜか写真は静かで寒々している。
 背後にはグランカナルと呼ばれる大運河が見える。大運河まで足をのばしたいが、限られた時間では無理。アポロンの泉水まで行き、そこで引き返した記憶があるが、これもぼやけた記憶である。とにかくヴェルサイユ宮殿の庭園は広いのだ。

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パリの路地
 ヴェルサイユ観光の後はパリに戻って各自自由行動。私はKT君と一緒にパリの街を歩いたが、どこを歩いたのか思い出せない。メモにはカルチェラタン→ノートルダム寺院→オペラ座と書いてあるが、これだと前日と同じ場所に行ったことになり不自然だ。
 しかし、手書きの地図には歩いた道筋が細かに描き入れられていた。その地図をもとに、あの日の行動を思い起こしてみよう。カルチェラタンのサンミッシェル通り→シテ島のサントシャペル→サンジャックの塔→パレロワイヤル→オペラ座。こんな順に歩いたのではなかろうか。
 写真を整理していたら、寂れた路地の写真が見つかった。汚れて退廃的。ブルースが聞こえてきそうな裏通り。パリで最もインパクトの強い風景だった。サンルイ島やマレ地区あたりにありそうな細い路地だが、いまとなっては撮影場所を特定できない。いまも写真のままの風景が残っているのなら、もう一度行きたい。

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シャイヨー宮とエッフェル塔
 パリ滞在5日目。KT君はオプショナルツアーに参加してパリ郊外へ出発。私は一人でパリの街を歩いた。ホテルを出てセーヌ川を渡りシャイヨー宮へ。2日前にシャンドマルス公園から見上げたエッフェル塔を、今度はシャイヨー宮から眺めている。
 シャイヨー宮からコンコルド広場へ。ここで岐阜県の青年A君に出会い、2時間ほど一緒に行動。オペラ座近くのレストランで昼食。言葉が分からないので適当にメニューを指差して注文。サラダとパンはあったと思うが覚えていない。覚えているのはポタージュスープと、もう一品。皿に盛られた見たことのない食べ物だ。A君も私も、それが何かを知らない。これにはフォークもスプーンも付いていないね。手づかみで食べるのかな。でも、それじゃ行儀が悪いよ。
 迷いながら、ひらめいた。これはたぶん、スープに入れて掻き混ぜて、すくって食べるんだよ。なんか変だけど、その得体の知れない食べ物をスープに入れて掻き混ぜた。周りで人が見てるよ。俺たち食べ方を間違えているんじゃないか。たとえば、ご飯に味噌汁かけて食うような……。後年になって分かったことだが、その得体の知れない食べ物はフライドポテトだった。日本ではまだフライドポテトが珍しかった時代の話である。

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モンマルトル墓地
 オペラ座付近でA君と別れ、再び単独行動。モンマルトル墓地へと向かった。墓地にはスタンダール、ハイネなどの墓がある。教会のようなお墓が並んでいてメルヘンチック。おとぎ話の世界にいるようだ。
 墓地を出ようとしたとき、予期せぬ事態に陥った。ギクッ、門扉が閉まっているではないか。墓地は塀で囲まれている。このまま夜通し墓地に閉じ込められてしまうのか。あの頃は携帯電話がなかったし、誰とも連絡が取れない。これで人生終わりかと焦りながら、墓地から抜け出せる場所を探し回った。すると、工事中の塀のわずかな隙間を発見。運良く脱出できたが、あの時は心臓が止まりそうだった。

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サクレクール寺院
 モンマルトル墓地からムーランルージュ、テアトル広場を通りサクレクール寺院へ。ムーランルージュは赤い風車で有名なキャバレー。テアトル広場は画家たちが集まり観光客の似顔絵を描いている広場である。ルノワールもゴッホもピカソも皆んなこの街に住んでいたのかと思うと、それだけで胸が小躍りする。
 しかし、最も心に響いたのはサクレクール寺院の美しさだった。サクレクール寺院は、パリを見下ろすモンマルトルの丘に建っている。キリスト教なのに、どこかイスラムの匂いがしてミステリアス。このまま居たいと思ったが、暗くなり始めている。もう帰らなければ……。
 サクレクール寺院の坂を下り、アンヴェール駅からメトロに乗ってエトワール駅へ。そこから先はタクシーでホテルに帰った。英語もフランス語も、読めないし話せない。それなのに地下鉄に乗って移動できたことが不思議でならない。
 パリに関するメモと写真は、サクレクール寺院で終わっている。たぶん、翌日はパリを離れ、アンカレッジ経由の飛行機に乗っていたはずだが、メモもないし写真もないので、何も思い出せない。



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